その日は珍しく小雨が長く降り続き、私は少し肌寒いと感じていた。

一九九九年十二月十八日、スリランカの中心都市コロンボで、私は再選を目指す大統領の選挙戦最後の 演説集会を取材していた。

午後九時十分すぎ、演説を終えた大統領が赤い絨毯が敷かれた八段の階段を降り、演壇から十メートルほど離れた車に向かって歩き始めた。警護隊が大統領を取り囲む小さな輪を作り、雨に濡れないようお付きの人がパラソルを高く差し上げた。暗い聴衆席の奥からは支持者達の応援の掛け声が波のように響いていた。私は大統領の方に近づき、同僚のカメラマンは三脚からカメラを外し肩に抱 えた。インド人の助手は大統領の顔に照明を当てようと努めていた。

会場から少し離れた場所で集会のフィナーレを飾る花火が上がり、花びらを舞い上げたような光がコロンボの夜空を明るく照らした。私が右肩越しに後ろを見上げると、花火は放物線を描きながらゆっくりと光量を落としていった。バチバチという火薬が炸裂する音が途絶え花火の後の独特の静寂を作った。会場で大きな声を上げていた支持者たちも、今までの興奮を忘れたかのように、夜空に広がる白い光と華やかな音の世界に取り込まれた。それまで張り詰めていた空気がふと緩んだ。

爆発の直前に打ち上げられた花火
爆発の直前に打ち上げられた花火。画面下中央に大統領が写っている
そのとき金属を叩いたような硬い爆音が響いた。

爆発の火柱が高く立ち上り、今しがた夜空に上がった花火のように光の粒が暗い会場に飛び散った。しかしそれは、火の粉などではなく、赤く熱せられた榴弾だった。私は体全体に爆風が作る強い風圧を感じた。

「花火が爆発したんだ。近くで花火が。会場内の花火だ。花火の暴発なんだ」

私は自分自身に花火の事故だと呪文のように言い聞かせていた。「しかし、この痛みは何だろう」体中を痛みが襲っていた。よろめきながら前に進んだ。目の中に入ってくるまわりの様子もそれに合わせて右に左に動いた。前方にカメラマンの姿が見えたが、声が出ない。私は助手のほうに視線を送ったが彼には「いつもの支局長の無表情な顔」にしか見えなかった。「血だらけだけど生きている」とカメラマンは思った。カメラマンは私が榴弾を浴びていることに気づいていなかった。私自身も自分の体に何が起きたのかまだわかっていなかった。私は大統領を撮れと、必死で指差した。大統領警護隊はすばやく大統領を体でかばい、銃を持った警官達がその周りを取り囲んでいた。大統領の方に近づくと、銃を持った警官に押し返された。よろけながら再び大統領に近づくと、また警官に強く押し返された。

膝をつき倒れこむと、もう立ち上がることはできなかった。このとき自分の左手の感覚がなくなっていることに気づいた。血が流れている。親指の付け根、手首、二の腕に穴が開いている。必死になって動かしてみた。動くのは動くのだが、やはり手首から先の感覚がない。おもちゃのマジックハンドを動かしているようだった。大きく腫れ上がって変形した自分の手を、私は物のように見ていた。ただ手の感覚が失われていても、不思議とあせる気持ちはなかった。その時私は、問題は手ではなく命だということをはっきりと認識していたように思う。

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事件後、私は何人もの人たちから、いたわりの言葉をもらった。もう二度と危険な仕事はするべきではないと忠告する友人もいた。しかし、渋谷の放送センター向かいにある飲み屋の主人は厳しい顔を作って私を励ますようにこう言った。

「みんな死に物狂いで仕事してるんだ。NHKの記者だったら、そのくらいのことをやらんといかん」

当時まだ体中に包帯を巻いていて、他人の言葉に敏感になっていた私は、「そのくらいのこと」という言い方が気になったが、それ以上に、飲み屋の主人が使った「死に物狂い」という言葉をなぜか聞き流すことができなかった。死に物狂いというのは、命と引き換えにしてでも、何かを成し遂げようとする強い使命感に満ちた心のあり方を指す言葉なのだろう。ジャーナリズムの世界に限らず、ときには本当に命の危険も冒して、仕事に取り組んでいる人は少なくない。

しかし、同じ「死に物狂い」でも、私が取材中に遭遇した自爆攻撃はこれとは明らかに違う。自爆攻撃は、敵に打撃を与えるだけのために、自らは百パーセントの確率で死んでしまうものだからだ。自分の命を絶つという意味では、一種の自殺といえるかもしれない。たとえそこに何らかの使命感があったとしても、何かが「狂っている」としか考えられない。だから自爆攻撃は、理由のわからない特異な現象として処理され、その詳細が注目されることはこれまでほとんどなかった。

ところが二〇〇一年九月十一日、その自爆攻撃がついに世界を震撼させる日がきた。アメリカの世界貿易センタービルや国防総省が、旅客機をハイジャックした犯人の自爆攻撃、厳密にいうと自殺攻撃を受けた。この破壊活動を成功させたのは、死を前提として使命を果たす、まさに「死に物狂い」の行動だった。

死ぬ気になれば、戦車や大砲がなくても、世界一強い国の中枢を攻撃できることが示され、世界中の市民が自爆攻撃に無関心ではいられなくなった。自爆攻撃は、攻撃の理由を示す必要もなかった。従来の戦争は国際紛争を解決するための最終手段で、衝突に至る前の段階で敵の意図がわかり、攻撃対象もある程度予測することが可能だった。これに対し自爆攻撃は、何の説明もなく、誰に対しても行われる問答無用の暴力行為である。我々は、防げない、逃げられない、そして予測がつかないという経験したことのない恐怖にさらされ、つかみどころのない不安に怯えざるを得なくされている。

この自爆攻撃という二十一世紀の怪物と対決するには、二つの方法があるのではないかと私は考えている。その一つは、アメリカのように、自分に危害を加える恐れがあるものをテロリストと呼び、徹底的に攻撃し壊滅しようとする方法だ。ブッシュ大統領は、アメリカを襲った敵を邪悪なテロリストと呼び、それをかくまうアフガニスタンのタリバン政権に大規模な空爆を続けた。

アメリカを襲った自爆攻撃が、非難されるべき破壊活動であることに異論を唱える人はほとんどいないだろう。しかし、その破壊活動に対抗するために、アメリカが攻撃対象として設定した敵とはいったい何だったのだろうか。犯罪者のグループなのか、特定の国家なのか民族なのかそれとも思想なのか。テロリストという言葉で表現される対象が十分に明確にされないままに、非難と軍事作戦が先行していたのではないだろうか。殺人罪で罰することができるハイジャックの実行犯はすでに死んでいるのだ。

アフガニスタンではアメリカ軍によって爆弾が落とされ、抵抗もできない住民が死亡していった。空爆の理由が何であれ、空から落ちてくる爆弾は住民にとって、恐ろしいもの(テラー)に見えたに違いない。家族の命を奪った憎むべき現象であっただろう。それをアフガニスタンのタリバン政権は、アメリカによるテロ行為だと非難した。そして、現地の一部のイスラム教の神学校はアメリカというテロリストと戦うことが義務だと教えていた。神学校の少年たちが、アメリカという敵に対する憎しみだけを胸に、命を賭けた「死に物狂い」の聖戦に向かっていくのを私はこの目で見た。テロへの報復は新たなテロを生み出す危険をはらんでいる。対立を続ける者同志がテロと言う曖昧な言葉を都合よく使って、憎しみを拡大再生産するだけに終わってしまうのだ。

私は、テロという暗闇に潜む怪物と戦うもう一つの方法は、何が異常な破壊活動を正当化させているのかを、明らかにすることではないだろうかと感じている。それはすなわち、自爆攻撃が生まれる原因を詳しく見てゆくということであり、怪物が大暴れする前に、怪物がどこから生まれてくるのかを突き止め、それがまだ卵か種のうちに摘み取ってしまおうということでもある。

自爆攻撃の生まれる理由を突き止めるのは難しい。爆弾テロの被害者は多くは死亡してしまうか、大きなけがをして被害について語ることができない。語るまでに回復したものは、もう一切テロとかかわりたくないと思う。それ故、爆弾テロというこの上もなく残忍な行為に対して被害者が抗議を行なうことは少ない。自爆攻撃の場合、抗議先の犯人自身が死んでいなくなっているからからこの傾向はさらに顕著になる。

われわれの理解を超えた特異な何かが自爆攻撃という現象を生み出しているのだろういう程度の想像を行なうのは難しくない。しかしそれ以上となると、ジャーナリストも何か理解できない異常な現象として距離を置き、ほとんど誰も本格的な調査や研究は行なってこなかったようだ。そしてそのために、その周辺にある人々の痛みや苦しみは、同情や共感を得られないまま置き去りにされている。

今でも日本の新聞では、「スリランカで爆発があり多数の死者が出た」という記事が載ることがあるが、外電を翻訳した小さなベタ記事程度の扱いだ。死者の数だけを伝える情報は中途半端で、無関心を助長するだけの結果になっている。多くの日本人にとって、スリランカは宝石にあふれ、薫り高い紅茶を産出する美しい島国でしかない。そこで行われている武力紛争などは、関心の及ばないところなのだろう。ましてや自爆攻撃などという理解を超えた行動など物騒で知りたくもない事柄なのだろう。私自身も、かつてはこの物騒な問題から目をそむけようとしていた人間の一人であった。

自爆攻撃を行ってきた解放のトラは、国際社会からはテロリストと非難されているが、自分たちはテロリストではなく、民族自決のための解放運動だとしている。被害者によってテロと非難される行為は、それを行なう側から見れば、追い詰められた者の最後の抵抗の手段であり、時には英雄的偉業であることも少なくない。

第二次世界大戦中のカミカゼ特攻隊は、攻撃を受ける立場に立つアメリカ人には恐ろしいもの(テラー)に見えたはずだ。しかし、日本人にとってカミカゼ特攻隊は、決してテロリストなどではない。それはなぜだろうか。自らを犠牲にする行為が、国を守るために命を捧げる尊い殉死であったり、身を投げ打って家族を守る愛だと、解釈されているからではないだろうか。私たち日本人は、自爆攻撃のことを、他人事のように、何かが「狂って」いる行為だと簡単に断ずることができるのだろうか。

自爆攻撃を行った女性はなぜ自分の命を絶つことができたのか。

二十一世紀に入って自爆攻撃は、中東などでも件数が急増し、カシミールなどほかのイスラムの世界に広まりはじめている。その自爆攻撃がどのようにして生まれ広がっていったのか。これまでに二五〇件を超える自爆攻撃を行ってきた解放のトラを見ていくと、自爆攻撃は近づき難く恐ろしい何かというより、もっとわれわれの身近にあることがわかる。そして身近であるが故に自爆攻撃が別の意味でもっと恐ろしいものであることも見えてくる。

私はジャーナリストとして解放のトラが支配するジャフナ半島を見た最初で最後の証人となった。日本人として、中立の立場から紛争当事者の双方の主張を聞くことになった。そして自爆攻撃という特異な現象に立ち会い体内に榴弾を抱える被害者となってしまった。

本書は、テロを直接体験したNHKの記者が目にした「自爆攻撃」についての報告である。