私の手元には今、事件の夜に撮影された二枚の写真がある。

一枚は、スリランカの田舎で行方不明になった女性、もう一枚は、大統領の暗殺を狙った自爆犯のものだ。二枚の写真は、マニカム・レーラという同じ女性の顔を、自爆攻撃の直前と直後に撮影したものだ。いずれも左斜め上の方向から写されている。

一枚目の写真のレーラは、若い女性らしく、白い縁取りの襟をつけたエビ茶色のワンピースを着て、誰かに傘を差しかけられているように見える。偶然ビデオカメラに映ったものだが、撮影位置が高かったことと、レーラの身長が百五十五センチと低かったことで、斜め上からという角度になった。


写真は、ビデオの画面の一部を拡大したもののためぼやけていて、はっきりと表情を読み取ることはできないが、視線は伏目がちに見える。足もとの何かを見つめているようでもあり、目を閉じて瞑想にふけっているようでもある。自ら選んだ死を前に、レーラの心は何を思い描いていたのだろうか。演説を終えた大統領が赤い絨毯の敷かれた階段を一段一段降りてくる足取りに、自分の呼吸を合わせていたのだろうか。大統領を取り囲む警察官たちの一人一人の動きを追い、大統領の進む先を緻密に計算しながら、起爆スイッチを握り締めていたのだろうか。それとも故郷の母親を思い出し恐くなって逃げ出したくなるような気持ちを抱いていたのかもしれない。

もう一枚の写真は、犯行の直後、レーラの死後に撮影されたものだ。この写真に写っているレーラには胴体がない。彼女が着ていた自爆ジャケットから飛び散った数千発の榴弾は、彼女の体を粉々に引き裂いていた。レーラの頭部は、雨でぬかるんだ事件現場の地面の上で、髪を泥まみれにして、口を大きく開け、夜空をにらむようにしていた。ワンピースを着た二十歳すぎの女性レーラは、一瞬のうちに気味の悪いテロリストの生首になってしまったのだ。警察の鑑識が、現場に残された証拠物件として頭部を床に置いたために、斜め上方向からの撮影になっている。レーラの首は死後時間が経過していないうちに撮影されたために、死んでいるようには見えない。皮膚や筋肉の細胞はまだ生きていて、肌の色合いが南アジアの若い女性に特有の艶を保っている。かすかに開いた右目は、薄目を開けて周囲の者の話し声をうかがい、見る者の心の中を読んでいるようにすら感じる。口の周りは、誰かの血をむさぼり吸ったように赤い血にまみれている。ただそれは他人の血ではなく自分のものだ。

レーラは自らの体を切り裂くことで何を成し遂げようとしたのか。私は二枚の写真が撮影された間に起きた出来事、つまり自爆攻撃が行われた瞬間に、レーラの断末魔の思いが封じ込められているような気がしてならない。レーラを自爆攻撃へと追いやったものは何であったのか。自爆攻撃を生んだ多くの人の「痛みの束」は、榴弾が放った光のように夜空の奥に消えてしまったのだろうか。

自爆攻撃を行った女性はなぜ自分の命を絶つことができたのか。

それは本人に聞いてもわからないことなのかもしれない。それよりも私自身は今、起爆スイッチを押すことを、なぜ思い留まらせることができなかったのかを考えたいと思うようになっている。自爆攻撃は二度と起きてはならない人間にとっては最も恐ろしい行為だ。自爆攻撃を行う者にどんな事情があっても、爆発の瞬間は殺戮の刹那でしかない。近づきがたく得体の知れない行為である「自爆攻撃」と、無視されつづける隣人の「痛みの束」──二つのものをつなぐことに本書が少しでも役に立つことを祈っている。