マザーテレサが教えてくれること

 

医療従事者の仕事とマザーテレサの生前の活動は重なるところがある。感染の危険と隣合わせの中で救える人を救うために努力する。海外ボランティアでマザーテレサが残した施設にいく人もいる。朝4時ぐらいに集合してミサを受けるひともいれば、交流したり、ごはんを食べたりする。お祈りをしてからそれぞれのボランティア施設に。入所している人の衣服を手洗いして干して、昼になったら入所している人の食事の介助。その後、一緒に過ごす。「だれでもできること」にこそ意味がある。いろんな国の人たちが来る。ヨーロッパ、韓国、カナダ、アメリカなど。言語は違うが同じ気持ちをもっている。不思議な空間。ポッドキャストで話を聞いた。

入所者は女性だとマニキュアを塗ってあげると喜んでくれたりする。「大したことをしているわけではない」のに「ありがとう」と言ってもらえる。自分が何者かになれたような気がする。昼過ぎで終わり、スラム街を訪れたり、買い物をしたりする。

インドには貧富の差がある。街中を歩いてていても自分の肩をたたいてくる女の子がいる。足や手が切断されてくる子供にお金を与える。その人たちを一瞬救うことになるのか。与えることと与えないことの双方を覚えることになるでしょう、といわれていたが。。。自分がよかれと思っていることが本当にいいのか。学ぶことも多いが答えはない。

死を待つ人の家は、症状が重い感じの人が多い。なんとなくどんよりとした印象。手で衣服を洗濯する。食事を介助する。ガーゼを畳む。死を待つ人は亡くなる人が多い。貧富の差。子どもが駅に捨てられていたりする。死を待つ人の家にきていたりする。亡くなる直前は人として扱ってあげたい。そうして上げられないところもある。インドは10年で大きな変化を遂げたが変わらないこともある。

マザー・テレサ(Mother Teresa, 1910年8月26日 – 1997年9月5日)はカトリック教会の修道女。修道会「神の愛の宣教者会」の創立者。カトリック教会の聖人。「マザー」は指導的な修道女への敬称。「テレサ」は彼女の敬愛したリジューのテレーズにちなんだ修道名。

アグネス・ゴンジャ・ボヤジュは1910年8月26日、コソボ州・ユスキュプ(今の北マケドニア共和国・スコピエ)に生まれた。母はアルバニア人、父はルーマニア人と同系の少数民族アルーマニア人。アルバニア独立運動の闘士。両親はマケドニア地方に住むカトリック教徒だったが、アルバニア人にはイスラム教徒が多く、マケドニア地方には正教徒が多かった。一家は裕福で父母は信仰心に篤く貧しい人への施しを積極的に行っていた。

1973年のテンプルトン賞、1979年のノーベル平和賞、1980年のバーラト・ラトナ賞。1996年にはアメリカ史上5人目の名誉市民。コルカタで始まった貧しい人々のための活動は後進の修道女たちによって全世界に広められている。ケネディ賞(1971年)、アルベルト・シュバイツアー賞(1975年)、アメリカ合衆国大統領自由勲章(1985年)、議会名誉黄金勲章(1997年)。

18歳のとき、聖座の許可を得たアグネスは故郷のスコピエを離れ、アイルランドで修道女会に入った。1931年にインドのダージリンに赴く。以後シスター・テレサ。1929年から1947年までテレサはカルカッタの聖マリア学院で地理と歴史を教えていた。カルカッタの貧しい人々の姿が映っていた。1948年、修道院を出て、カルカッタのスラム街の中へ入っていった。質素なサリーを身にまといホームレスの子供たちを集めて街頭での無料授業を行う。

「神の愛の宣教者会」は、1950年10月7日に教皇庁(ローマ教皇庁)によって認可を受け創立。インド政府の協力でヒンズー教の廃寺院を譲り受けたテレサは「死を待つ人々の家」というホスピスを開設した。地元住民たちはキリスト教に改宗させようとしているという疑念を抱いていた。亡くなった者に対してはその者の宗教で看取っていた。ヒンズー教徒にはガンジス川の水を口に含ませてやり、イスラム教徒にはクルアーンを読んで聞かせた。

1969年、アメリカ人のマルコム・マッグリッジが撮ったドキュメンタリー映画『すばらしいことを神様のために(Something Beautiful for God)』および同名の書籍によって、テレサの活動は全世界で知られるように。

ノーベル平和賞授賞式に普段と同じく白い木綿のサリーと革製のサンダルという粗末な身なりで出席。賞金を受け取ったとき「このお金でいくつのパンが買えますか」。インタビューの中で「世界平和のために私たちはどんなことをしたらいいですか」と尋ねられたテレサの答えはシンプルなものであった。「家に帰って家族を愛してあげてください」。
1993年5月、テレサは転倒して首の骨にひびが入り、8月にはマラリアに罹患した。9月にはカルカッタで心臓病の手術を受けた。11997年9月5日、世界が見守る中、テレサはカルカッタのマザー・ハウスにて逝去。満87歳没。

宗派を問わず働いたテレサの葬儀は、1997年9月13日にインド政府によって国葬として荘厳に行われた。マハトマ・ガンジー、初代ネール首相につづき、マザー・テレサは3人目。2011年4月に死去したサティヤ・サイ・ババ。

2016年9月4日、フランシスコはテレサを列聖し、「聖人である」と宣言した。死後、満19年目を迎える前日。

歴史学者ヴィジャイ・プラシャドの『人種化された空間における白人女性』(White Women in Racialized Spaces) のあるエッセイでは、マザー・テレサについて次のような言及がされている。「マザー・テレサは、浅黒い皮膚をした人々を彼ら自身の惑溺と怠惰から救うために尽力するという、植民地における白人女性の最も純粋な典型といえます」

「最大の病はハンセン病や癌や結核などではありません。それは誰にも必要とされず、誰にも気に留めてもらえず、すべての人から見捨てられているという孤独です」

 

マザー・テレサは三度来日。上智大学を訪問。1981年は「ビューティフルなことって何」と題して講演。1982年は「飢えることとは?」、1984年は「飢えと生命」と題して講演。マザーは最初の1981年に上智大学を訪れたとき、こう語っている。「ある夜のこと、一人の女の人は体にうじがわいていて死にかかっていました。私は彼女の体中のうじを取り、体を拭きました。時間がかかりましたが、拭きおわってベッドに寝かせたとき、彼女は私の手を取り、優しい微笑をたたえて、私にたった一言『ありがとう』と言って息をひきとりました。」

来日して、日本の「心の飢え」を見抜いたマザーは、未婚の母と見捨てられた子供たちのための「子供の家」を東京都江東区「アリの街」に1981年に設立した。インドから派遣された4人のシスターによって活動がスタートし、現在は東京都の足立区と台東区、愛知県、大分県の4か所で未婚の母やホームレスの人びとのために活動を続けている。

日本にいると「ないものばかりをさがしてしまう」。あるものに感謝しなければいけないと思える。マザーテレサが教えてくれること。