【知っトク】核兵器禁止条約にインドが参加しない5つの理由

核兵器の開発や製造、保有、使用を全面的に禁じる核兵器禁止条約の批准国・地域が2020年10月24日、条約が発効する条件となっている50に達し、90日後の来年1月22日に条約が発効する。中米ホンジュラスが24日に批准した。アフリカ6▽米州21▽アジア8▽欧州5▽オセアニア10。小国や島国が多い。中距離核戦力(INF)全廃条約は、米国の離脱表明を機に昨年8月に失効。米ロ間に現在残された唯一の核軍縮条約である「新戦略兵器削減条約」(新START)の期限は来年2月。
 核兵器禁止条約は2017年7月、国連の条約交渉会議で122カ国・地域の賛成で採択された。核不拡散条約(NPT)が「核保有国」と定めるアメリカ、ロシア、英国、フランス、中国はこの条約に反対。「核の傘」の下にある日本や韓国、北大西洋条約機構(NATO)加盟国は批准国となっていない。日本は「日米同盟の下で核兵器を有する米国の抑止力を維持することが必要」などとして批准していない。韓国、北朝鮮も不参加。それにインド、パキスタン。
 条約の対象は核兵器で、原子力発電やX線撮影装置などの平和目的での原子力の保有は禁じていない。前文で国際人道法と国際人権法の原則が再確認されている。条約の特徴は、核兵器または核爆発装置を所有、保有、管理していた締約国が申告を要する点。非締結国への法的拘束力は無い。開発(development)実験(testing)製造(production)備蓄(stockpiling)移譲(transfer)使用(use)威嚇としての使用(threat of use)のすべてを禁止する。


 インドが核兵器禁止条約に参加しない理由は5つある。

その1)NPTへの反発
インドは1974年に核実験を行い、6番目の核保有国となった。第二次世界大戦後のインドで長く続いた国民会議派のインディラ=ガンディー政権は、1974年5月、西部ラジャスターン州で地下核実験を行った。「平和的核爆発」が名目とされ核実験はそのコードネームから微笑むブッダ (Smiling Buddha) とも呼ばれている。この4年前の1970年に国連決議にもとづき、アメリカ・ソ連・イギリスの核保有国三国が合意して締結された核拡散防止条約(NPT)が1970年に発効していた。インド政府はこの条約は核兵器所有国による核独占態勢の保障に他ならないとして条約調印を拒否。その姿勢は今も変わっていない。

その2)CTBTに対する反対 
核拡散防止条約(NPT)は1995年に自動延長され、さらに96年9月に包括的核実験禁止条約(CTBT)が国際連合総会で採決された。インドは反対の意思表示を行った。インドの立場は「ヒロシマとナガサキの悲劇は二度と繰り返してはならない」としたが核保有国は核実験室でのシミュレーション・テストやコンピュータ作戦を行う自由をもつのに非核保有国による平和目的のための核開発が制限されるとしてCTBTに反対した。非保有国は自国産の核資源の活用すらも否認され、主権が否定されるとした。核兵器の全面的な廃棄が規定されていないことも理由にあげられた。インドの主張は明白で論理的であり現在の各体制の矛盾の多くを代表している。核保有国の独善に対する不信感だ。98年6月には国連安保理が、印パ両国はNPT(核兵器不拡散条約)に従い核兵器国の地位を有し得ないとする決議1172を採択したが、2005年7月の米印原子力協力合意で、インドの核保有を事実上承認した形となった。2016年の日印原子力協定では、日本はインドが核実験モラトリアムの約束を変更する場合には協定を終了させることができる旨を宣言しているが批判も多い。

その3)国威発揚
 1990年代、急速に台頭したインド人民党(BJP)は、1998年の総選挙でインド国民会議派を破り、政権を握った。インド人民党はヒンドゥー至上主義的なナショナリズムを掲げ、核兵器は現代の国際社会で本質的な役割をもつという立場をとる。総選挙前の公約で通り、政権交代を果たしたインド人民党のバジパイ首相は5月11日と13日、合計5回の地下核実験を強行した。パキスタンは反発して、数日後に地下核実験を行った。
 1971年、インディラは東パキスタンのパキスタンからの独立運動に武力介入して第三次印パ戦争を引き起こした。アメリカがパキスタンを支援したものの、インディラはソ連と接近し、印ソ平和友好協力条約を締結して支援を受け戦争に勝利した。

その4)技術力の維持
1972年9月7日にインドのインディラ・ガンディー首相は、ムンバイ近郊のトロンベイバーバ原子核研究センターの科学者に核実験の許可を与えた。核実験装置の開発責任者は、ラジャ・ラマナ(Raja Ramanna)。機密保持のため、開発チームは75名ほどの少数の科学者・技術者で構成された。ソビエト連邦のドゥブナに開発に携わる科学者を送った。実験に必要な核物質はプルトニウム生産に用いられたCANDU炉は、カナダによって提供された重水減速型天然ウラン燃料の原子炉であり、そこで使用する重水はアメリカから供給されていた。外国からの技術支援で得られた使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを入手した。インドの原子力研究はホーミ・J・バーバーが1945年にタタ基礎研究所を開設したことより開始された。1957年には国際原子力機関に加盟し、アメリカやカナダ等の協力を得て、原子力開発を進めてきた。国産の技術力の維持の必要が核保有の理由となっている。

その5)中国への対抗とアメリカへの接近
1962年に中印国境紛争があり、1964年に中国が核実験成功した。1965年の第二次印パ戦争は、インドに核兵器への関心を抱かせたとされる。核拡散防止条約が1963年に採択されたが中国の核保有を容認する体制となった。インドの核実験後、国際的にも原子力技術の兵器転用への懸念をもたらし、原子力供給国グループが創設された。インドは原子力関連技術の導入が困難になり独自に原子力技術開発した。アメリカはインドを特別扱いする原子力合意を結びこれが現在の米印関係の根底にある。

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