植民地時代の遺構となった国会議事堂の建て替え【巨大プロジェクトで景気刺激】
インドの国会議事堂は新しい構造に置き換えられる。ナレンドラ・モディ首相は、ニューデリーの植民地時代の中心部の壮大で論争の的となってきた再開発の目玉巨大な新しいインド議会の更新に着手した。巨大プロジェクトの2,000億ルピー(27億ドル)は、Covid-19との戦いとパンデミックに襲われた経済の修復の目的も。
地鎮祭の式典ではヒンドゥー教の儀式が行われた。新しい農業法に腹を立てている何万人もの農民がモディ改革へに疑義が申し立てる中での動き。批判的な声もあがる。
インドは英国からの独立75年を2022年に迎える。それにあわせて完成させる。古い建物に代わって大きな新しい議会が設置される。
20世紀初頭に英国の建築家エドウィンラッチェンスによって設計された議会周辺地域には、ラジパス大通り、大統領官邸、官庁、国立博物館、インド門戦争記念館もある。
現在の古い議会のいくつかは改装され政府の事業に引き続き使用されるが、他の建物は博物館に変わるとのことで。一部は取り壊される。
ヒンドゥー教徒は人口の大部分を占めるインド。2億人のイスラム教徒は、モディがインドをヒンドゥー教徒の国として作り変えようとしていると警戒する。
インドの下院議会はローク・サバーと呼ばれる。定数545人。
与党 (337)
国民民主同盟 (337)
インド人民党 (303)
ジャナタ・ダル (統一派) (15)
人民の力党(LJP)(英語版) (6)
アカリ・ダル (2)
アプナ・ダル(AD(S))(英語版) (2)
全ジャールカンド州学生組合党(AJSUP)(英語版)] (1)
全インド・アンナー・ドラーヴィダ進歩党 (1)
全国民主党(RLP)(英語版) (1)
ナガランド人民戦線 (1)
国家人民党(NPP)(英語版) (1)
国民民主進歩党(NDPP)(英語版) (1)
ナガランド人民戦線 (1)
シッキム革命戦線(1)
無所属 (1)
野党 (205)
統一進歩同盟 (93)
インド国民会議派 (52)
ドラーヴィダ進歩党 (24)
国民会議党 (5)
ジャンムー・カシミール人民民主党 (3)
インド連合ムスリム連盟 (3)
ジャールカンド解放戦線 (1)
ケーララ会議派(KM)(英語版) (1)
革命社会党 (1)
全インド統一民主戦線 (1)
解放パンサー党(VCK)(英語版) (1)
無所属 (1)
その他 (112)
トリナムール(草の根)会議派 (22)
YSR会議党(英語版) (22)
シヴ・セーナー (18)
ビジュ・ジャナタ・ダル (12)
大衆社会党 (10)
テランガナ国民会議(TRS)(英語版) (9)
サマジワディ党 (5)
テルグ・デサム (3)
インド共産党マルクス主義派 (3)
全インド統一ムスリム評議会 (2)
インド共産党 (2)
アーム・アードミ党 (1)
ジャナタ・ダル (世俗派) (1)
無所属 (2)
空席 (1)
単純小選挙区制。指定カースト、指定トライブの議席については、各州・連邦領の人口比例に基づいて留保。2人はアングロ・インディアンから大統領が指名。選挙権者は18歳以上。被選挙権者は25歳以上。ラージヤ・サバーは上院。下院の優越的権限がある。下院のみが内閣不信任動議権を有し、50人の下院議員の支持により提出される。ただし、過去に提出された事例は、1963年の1回のみで、しかも失敗に終わっている。
エドウィン・ラッチェンスはデリーのインド門を設計した20世紀始めに活動したイギリスの建築家。1911年にインドの遷都(カルカッタ→デリー)が決定され、翌年以降、ラッチェンスはハーバード・ベイカーと共にニューデリーの都市計画に携わることになった。インド総督府(現インド大統領官邸であるラシュトラパティ・バワン)は古典様式を基調にインド建築の装飾を採り入れたラッチェンスの代表作。
インド門「全インド戦争記念碑」慰霊碑。ニューデリーの「儀式の軸」の東端にあるラジパース(以前はキングスウェイと呼ばれた)に沿って建つ。1914年から1921年の間に第一次世界大戦、フランス、フランドル、メソポタミア、ペルシャ、東アフリカ、ガリポリなど近・極東、第三次アングロ・アフガン戦争で戦死したイギリス領インド陸軍の兵士7万人の記念碑として建てられた。
エドウィン・ラッチェンスが設計した門は、ローマのコンスタンティヌスの凱旋門などの凱旋門の建築様式を思わせ、パリのエトワール凱旋門やムンバイのインド門に例えられることが多い。よくこの前で立ちリポをした。1972年のバングラデシュ独立戦争の後、アーチの下には黒大理石の台座に4つの永遠の炎で囲まれた構造物が建てられた。アマル・ジャワン・ジョティ(不滅戦士の炎)と呼ばれ、1971年以来、インドの無名戦士の墓となっている。毎年、共和国記念日には首相がアマル・ジャワン・ジョティに敬意を表し共和国記念日のパレードが始まる。
19世紀後半のインド建築について神谷武夫氏のサイトから内容を引用。インドを植民地としていったイギリスは 19世紀後半に最盛期を迎えていた。首都のカルカッタ(現・コルカタ)は、インド総督官邸を始めとするヨーロッパの新古典主義(新しい建物を古代ギリシア・ローマの建築様式に基づいて設計する傾向)の建物で飾り立てられていた。しかしカルカッタの夏は暑く、また非衛生的であったので、1865年以降は避暑地のシムラが夏の首都とされ、ヘンリー・アーウィンの設計になる英国のカントリー・ハウス風の総督官邸が建てられた。
英領時代の主要な建築はもっぱら英人建築家の設計になる「コロニアル建築」である。インド人には設計が任されなかったというより、インドには建築家の養成機関もなかったのである。絵画の領域におけるアバニンドラナート・タゴールのような、ナショナリズムの建築家も現れなかった。
一方、商業都市ボンベイ(現・ムンバイ) には本国におけるゴチック・リバイバルに呼応して、教会堂ばかりでなく商業建築までもゴチック様式で華麗に建てられ、大英帝国の勢威を顕示した。ジョージ・ギルバート・スコットの設計によるボンベイ大学の図書館や講堂はその代表。
こうした西洋文明の一方的押しつけが 1857~59年のインド大反乱(セポイの乱)をもたらしたという反省から、コロニアル建築にもインドの伝統的な要素を取り入れようという動きがおこり、とりわけムガル朝の建築様式を西洋建築に折衷させた「インド・サラセン様式」が1880年代から盛んになる。
インドの雨季に備えて石の板庇をつけ、飾りの小塔(チャトリ )を屋根に並べて ドーム屋根を戴いたスタイルがインド中に広まった。ナショナリズムを、英人建築家たちが代弁した。
20世紀にカルカッタを中心にして反英独立運動が高まると危機感を強めた英国政府は、インドの中央に位置するデリーの南側に、カルカッタから遷都するための新都市を建設することを1911年に宣言する。こうして呼び寄せられた建築家 エドウィン・ラチェンズと ハーバート・ベイカーは ニューデリーの都市設計をし、インド総督(帝国副王)官邸を始めとする主要な施設を設計した。ここでは英国の政策としてインド・サラセン様式を薄め、ヨーロッパの古典様式への傾斜を強めた。
この頃すでにヨーロッパでは、19世紀の様式主義の建築を否定した近代建築運動(モダニズム) が最盛期を迎えていた。ニューデリーの建設工事の間、現場で監理をしたのは ラチェンズの助手のアーサー・ゴードン・シュースミス。若いシュースミスはモダニズムの旗手 ル・コルビュジエと1歳ちがいであり、ラチェンズの古いスタイルには飽き足らないものを抱いていた。そして工事の監理中にセント・マーチンズ・ガリソン聖堂の設計の機会を与えられると、ほとんど装飾のない、レンガの力強いマッスで構成主義風の設計をした。インドにおける最初の近代建築である。
1947年に英国から独立すると、インドは様式主義に訣別して一気にモダニズムの時代に突入する。その作風を決定づけたのは、パンジャーブ州の新州都チャンディーガルの都市と主要施設を設計したフランスの建築家、ル・コルビュジエである。パリのル・コルビュジエのアトリエで修行をし、西インドのアフマダーバードで活躍したバルクリシュナ・ドーシはこの傾向を定着させ、この都市をインドにおけるモダン・デザインのメッカにした。
土着の技術や風土への適応を目指す現代建築の流れもある。英人建築家 ローリー・ベイカーは南インドのケララ地方に定着して、熱帯の風土に適した、民衆のためのローテク建築を探求した。
現在の国会議事堂の建設には6年かかり、開所式は1927年1月18日に、当時のインド総督であるアーウィン卿によって行われた。建物の建設費は830万ポンドでした(US $ 120,000)。議会は直径170メートルで、2.4ヘクタールの面積をカバー。4階建ての円形構造。新しい国会議事堂は現在の複合施設に関する安定性の懸念から新しい建物が検討されてきた。現在の建物への代替案を提案するための委員会は元議長メイラ・クマールが設立。築85年の現在の建物は入居者とそのスタッフのスペースが不足しており構造上の問題があると考えられている。
100年単位の大変化は起きているのが視覚化される。