インド人の死生観

大東文化大の篠田隆先生の論考より抜粋。ヒンドゥ教徒の死生観は輪廻や解脱といった宗教思想を核としている。輪廻とは前世の業(カルマ)が現世での再生形態を、現世での業が来世での再生形態を規定し、この循環すなわち輪廻は一定の方法により解脱しない限り永遠に継続する、という思想である。無限の再生は魂の最大の苦痛であり、解脱には(1)知識の道(2)行為の道(3)信愛の道、の三方法があるとされている。知識の道、行為の道は社会の特定階層・集団に事実上限定されるのに対して、熱烈な信仰のみを要件とする信愛の道は一般大衆に開かれた解脱の方法となっている。

茶毘にふされる死体から抜け出た魂は中空をのぼり、月に到る。現世の行為により解脱できる魂はそこで輪廻の環を断ち切るが、解脱できない魂は地獄での責苦のあと再度中空に戻り、雨となり大地に降りそそぐ。雨は植物に吸収され、それをはむ人間や動物の体内に入る。これらが交合することにより、輪廻の一環である新たな生命が誕生する。

ヒンドゥ教の際立った特徴は、輪廻が業思想を媒介としてカースト制度の維持に利用されてきた点にある。紀元前後に成立したといわれる「マヌの法典」には、バラモンの殺害者は動物の胎に入り、異カースト間の交合者は悪霊となり、世襲的職業の放棄者は悪しき輪廻をへる、と記されている。

死期が近づくと、家族の司祭であるブラーマンが呼ばれ、床のそばにギー油の灯火が置かれる。死にゆく者はヴィシュヌ神に祈りを捧げ、司祭に現金と衣類の他に雌牛一頭を喜捨する。他のブラーマンには、現金と米、豆、塩、腐食した釘とシャベルが与えられる。親族と知人が床を訪れ、死期が迫るとラーム神の名を唱える。親族の一女性が玄関を清め、人ひとりが横たわる範囲に牛糞をしきつめ、死の床の準備をする。その上に、ゴマ、大麦の種子、トゥルスィー樹の葉およびダルバ草をまき散らす。死にゆく者は頭髪を剃られ、微温湯で体を清められ、眉にゴーピーチャンダン(黄色土)で印を付されてから、頭を北側に向け横たえられる。ガンジス河の聖水、若干量の金、銀、サンゴ、真珠などがメボウキの葉とともに口中に詰められる。

息が途絶えると、最も近い親族が死者の魂を呼び戻すべく叫び声をあげる。遺族は市場に行き、竹竿、ヤシ綱および死者が女性の場合は赤色の絹布、男性の場合は白色の綿布を購入する。竹竿を組んで死者を運ぶ台をつくり、四隅にココナツを吊す。台の上に死体を乗せ、ヤシ綱で縛る。死体に白(男性)や赤(女性)の布をかけ、その上に赤色粉と花をまき散らす。4名の近親者が台を肩に担ぎ、喪主(通常は長男)に続く。喪主は火種と牛糞ケーキの入った土製あるいは銅製の壷を携える。

親族とカースト成員はラーム神の名を唱え、後に従う。女性の会葬者はさらに距離をとり、号泣しながら従う。途中で彼女らは立ち止まり、胸を精一杯たたき悲しみを表してから引き返し、井戸水や河の水で身を清める。男性会葬者は焼場手前で立ち止まり、台を一旦路上に置く。それから近親者が台を焼場に搬入する。

積み重ねられた薪と牛糞ケーキの上に、布のかけられていない頭部を北側に向け死体を置く。死者の口中にバターを注いでから、喪主が頭部近くの薪に火を入れる。それから他の会葬者が全体に点火する。死者が高齢者の場合は陽気に思い出を語るが、年少者の時は悲哀に包まれる。焼き上がる頃、ギー油が注がれる。焼場での儀式終了後、会葬者は喪主宅を再訪してから帰路につく。数日後、喪主と若干名の近親者は焼場跡から遺灰と遺骨を拾い、河川や貯水池に流す。

冠婚葬祭のなかで、結婚式はダウリ(嫁側からの持参金)制度の強化、新聞・雑誌への求婚広告や役所への登録結婚式の進展などの新たな展開をみせているのに対して、葬儀や祖霊祭の遂行は簡素化への動きと概括することができよう。

 

インドの仏教は、仏教の開祖の釈迦牟尼(ガウタマ・シッダールタ)が古代インド十六大国時代の一つコーサラ国のカピラ城に生まれたことに始まるとされる。カピラ城の所在は不明だが、ネパールのティラウラコート と、インドのピプラーワーが有力である。通説では、ネパールルンビニに生まれたことに始まるとされる。

インドは仏教発祥の地であるが21世紀においてインドの仏教信仰は殆ど消滅してしまった。13世紀初頭にイスラム教の軍がベンガル地方に侵攻し、仏教の拠点精舎を破壊・虐殺したことによって滅んだとも言われるが、その後も零細な集団として、インド仏教はかなりの期間に渡って存続している。

カシミール、ネパール、東ベンガルなどには、細々ながら仏教が存続している。第二次世界大戦後には、スリランカから上座部仏教が逆輸入されたり、チベットからの難民受入れによるチベット仏教や、日本山妙法寺による布教、インドの大学に対して講師派遣など日本からの支援によって、2001年の国勢調査では、インドの仏教徒が800万人前後となっている。

インド国内の仏教遺跡としては、以下が有名。
サーンチーの仏教遺跡
ブッダガヤの大菩提寺
サールナートダメークの仏塔跡
ラージギール王舎城霊鷲山
サヘート・マヘート祇園精舎
アングリマーラの仏塔跡/舎衛城
ヴァイシャリアナンダの仏塔跡
クシーナガラ涅槃堂
ナーガールジュナコンダ(丘)
ナーランダ大学の遺跡
ヴィクラマシーラ大学の遺跡
アジャンター石窟群
エローラ石窟群の仏教石窟
ラダックの修道院

スリランカからの仏教再移入があり、インド独立直後、ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル (B. R. Ambedkar) の率いた社会運動によって、およそ50万人のダリットの人々が仏教へと改宗したことで、インドにおいて仏教徒が一定の社会的勢力として復活した(いわゆる新仏教運動)。

インドに帰化した日本人僧としては佐々井秀嶺氏が知られる。

ダリットを基盤として復活したインド仏教は「アンベードカル仏教」と揶揄されるように、アンベードカルの仏教理解に立脚しており、仏教の基本教理とされる輪廻による因果応報を、カースト差別との関連から拒否するなど、その合理主義的な教義が、不可触民の解放運動の一環に過ぎないと指摘される側面もある。加えて、カーストと関係のない布教活動を行う上座部との二極化も進んでいる。

イスラム教徒の弾圧で、インドから仏教が消滅したため、置き去りにされていた仏教の遺跡の多くは、史跡公園として整備され、現在、管轄地域の州が管理している。また、インドの推薦によりナーランダやサールナートは仏教の聖地として世界遺産候補に指定されている。

1959年3月31日に、ジャワハルラール・ネルー初代首相は、ダライ・ラマ14世のインド亡命を受け入れた。1959年10月20日に開始された中印国境紛争以後もダライ・ラマ14世を保護し続け、インド北部のダラムシャーラーにガンデンポタン(チベット亡命政府)と多数の亡命 チベット人を今日まで受け入れ、チベット仏教文化の拠点となっており、「リトル・ラサ」とも呼ばれて、観光地として人気が高い。

ヴィパッサナー瞑想の在家指導者、サティア・ナラヤン・ゴエンカ(1924-2013)によるヴィパッサナー運動は、宗教の枠を超え、インドのみならず世界でも活動した[2]。ムンバイに建てられた巨大なヴィパッサナー寺院は、直径97mの石造りのドーム。8000人以上が一度に瞑想出来る。竣工式にはインド大統領も参加した。2012年にゴエンカはパドマ賞をインド大統領から授与された。

 

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