鈴木修会長の退任【こんちくしょうの現場主義】
「こんちくしょうだよ」と優しく教えてくれた。成功の秘訣を聞いた。インド大使館のレセプションの時だ。インドの事業の成功は難しい連立方程式だと結論付けていた自分の考えを見直すきっかけになった。もう一度お目にかかったのは鈴木大使を送り出すとき、同じスズキを激励した。徹底した現場主義、現実主義者。
「ウチは浜松の中小企業」というカリスマ鈴木修会長が2021年02月退任を発表した。スズキの新経営陣は大変革期を乗り切れるかが問われる。スズキの鈴木修会長は6月に退任する。浜松市の軽自動車メーカーを世界的な小型車メーカーに育てた。
米ゼネラル・モーターズ(GM)や独フォルクスワーゲン(VW)との提携・解消もった。インドへの進出は、もてるもので戦うインドのジュガードの思想を体現していた。先見性と時代の流れを読む力。2020年はスズキの創立100周年の年だった。
創業家の娘婿として48歳で社長に就任。国内でほとんど最下位だったスズキを一代で世界有数の小型車メーカーへと育て上げた。取締役会で承認を受け相談役に就くこととした。
岐阜県益田郡下呂町1930年1月30日生まれ。勲二等。旧姓は松田。中央大学法学部卒業後、中央相互銀行(現在の愛知銀行)入行。1963年11月に取締役就任。1975年の自動車排出ガス規制に対応が遅れたスズキを立て直し、社長就任直後に軽自動車アルト(1979年発売)を主導。その後もワゴンR(1993年発売)の発売など軽自動車の商品力を高めた。インドでのマルチ・ウドヨグ(現マルチ・スズキ・インディア)社への積極的支援等を通し、アジア成長国での販売を伸ばした。2007年3月に「自動車産業を通じてインドの発展に寄与した」としてインド国勲章(Padma Bhushan)が授与されている。
自動車メーカーのスズキがインドで成功しているのは、インド固有の事情に精通したからだろう。インドにおけるスズキの乗用車生産販売子会社であるマルチ・スズキは、インド自動車市場のシェアの約半分を占めている。自動車が速く颯爽と走るようにとインドの風の神「マルチ」の名前を冠したマルチ・スズキは、ホンダやトヨタに大きく水をあけている。モータリゼーションが加速するインドの自動車市場は二〇三〇年には年間一千万台規模になると予想されており、スズキが現在のシェアを維持できれば、インドだけで日本国内の全メーカーの総販売数に匹敵する五百万台という販売規模になることも夢ではない。
インド固有の事情とは、現地の雇用環境や消費者の車の嗜好、所得水準の現実など、現地にいなければ、なかなか実態がつかめない情報だ。国産製品を重視してきたインド人の気風も忘れてはならない。スズキは合弁会社を作り、必要な情報を最もよく知っている人々、即ちインド人とタッグを組んで事業を拡大してきた。低価格に徹すること、素早く決断することが、スズキの工夫のしどころだった。
それを可能にしたのは、先手必勝の戦略だ。一九八〇年に総選挙で圧勝したインディラ・ガンディーは、産業政策声明を出し、貿易と外資導入の自由化に踏み切った。インドの経済開放といえば、コラムでもふれた一九九一年の改革が有名だが、実は産業構造調整は長年の課題だったので、一九八〇年その雛形となる外資導入政策が実施されている。このチャンスを逃さなかったのが、スズキだった。
イギリスから独立後のインドでは、国内メーカーのヒンドゥスタン・モーターズとプレミア・オートモービルズの二社が、セダン一車種ずつを二十年余りにわたって生産していたが、台数は限られていた。こうした中で、国民車創設構想を掲げたのが、インディラ・ガンディーの次男であるサンジャイ・ガンディーだった。サンジャイ・ガンディーは、イギリスで自動車工学を学び、一九七一年に「マルチ・モーターズ」を設立。ニューデリー近郊のグルガオンに自動車工場を設けたが、その稼働を待たずに、一九八〇年に飛行機事故で死去する。「ガンディー王朝」の後継者として期待されていた息子を三十三歳の若さで失った母親のインディラ・ガンディーは、息子の忘れ形見「マルチ・モーターズ」を国営化し、海外企業と組んで大衆車の量産を計画した。スズキの進出のタイミングは、インド側が自動車生産協力のパートナーを探していた時期だったのだ。
スズキの鈴木修社長は、一九八三年にインディラ・ガンディーと面会し、「ご子息が残した工場を生かしたい」と伝えたという。国民車の合弁事業でインド政府と基本合意したスズキは、一九八三年、亡くなったサンジャイ・ガンディーの誕生日だった十二月十四日に、日本の「アルト」改良した「マルチ800」の納車をグルガオン工場から開始した。
狭い路地が多く高速道路も少ないインドの都市部では、基本的に小型車が向いている。販売価格帯も、中間層の手に届く範囲で、車種の選択肢を提供することが必要だ。その点、小型車を得意とするスズキはインドに向いていた。マルチ・スズキという合弁会社が果たした現地化の役割も大きい。スズキが日本のものづくり文化を提供し、インドのマルチ側が販売網の拡大や生産の現地化を進めるという役割分担を行うことができた。
スズキが力を発揮したのは、インドと日本における会社の立ち位置を冷静に俯瞰し、人情という部分も含め、ワンマン企業ならではの決断力で行動を起こしたからで、結果的に大きくライバル会社と差をつけることになる。
インドの国民車としての評価が高まり、スズキの成功を誰もが認めるようになった頃、鈴木修氏に成功の秘訣を尋ねたことがあるが、「一言でいうと、こんちくしょうという気持ち、まけずに頑張る気持ちだ」と語っていたのが印象的だった。
とはいえ、スズキもここに至るまでには平坦な道ばかりではない。グルガオンに続く二番目の生産拠点マネサール工場では、二〇一二年に労働者らが暴徒化して事務所などに放火する事件があった。インド人の人事部長が死亡し、日本人二人を含む約百人がけがをした。正規と非正規の雇用条件での待遇の格差などが背景にあったとされている。労働者とのいざこざは、スズキだけでなく、トヨタやホンダでも大きな課題であり続けている。
私には優しく接してくれた。こんちくしょうの言葉が耳に残る。
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