インドメモ シク教
2022年3月13日、野崎通のダルバールを訪問。祈りの儀式は終始歌でつづられた。キールタンの神秘的な響きはマイクなのに実音に聞こえる。ギターを手に歌いだす白髪の老人。日本に住むシク教徒。神を崇め奉る。仲間の声に包まれ自らも歌うことで生まれる居場所確認と一体感。書見台の上にスマホを置いて固定。プロジェクタにパンジャブ語と英語訳とパンジャブ語の要約と音読のためのアルファベット表記。寝台の高さに置かれた聖典『グル・グラント・サーヒブ』をウチワで仰ぐ。肖像を下に置いていいのは肖像を崇拝する宗教ではないからとか。頭を床につけて拝む。信じることを言葉で表すのは難しい。
シク教は、15世紀末にグル・ナーナクがインドで始めた宗教。スィクはサンスクリット語の「シシュヤ」弟子を意味する。アムリトサルのハリマンディル。寺院の周辺は寄進者の名前が刻印され大理石の板が敷き詰められている。世界で5番目に信者の多い宗教で、約2400万人。著名人にマンモハン・シン(インドの首相)。パーミンダ・ナーグラ(イギリスの女優。チャダ(インドの演歌歌手、音響機器会社の社長)。タイガー・ジェット・シン(プロレスラー)。マダンジート・シン(外交官、芸術家)。ダレル・メヘンディ(歌手)。ミルカ・シン(陸上競技選手)。
経典は『グル・グラント・サーヒブ』師匠、書物、様。教団第10祖グル・ゴービンド・シングの4人の息子がムガール帝国との戦いで殺され、遺言で経典『グラント・サーヒブ』をグルにするようにと言った。
真の宗教は儀式や形式といった表面的なものへの執着を超えたところにある。「イク・オンアカール 」(神は一つである)。諸宗教の本質は一つ。神の本質および存在(ナーム)を思い起こし家庭生活に結びつける。儀式、偶像崇拝、苦行、ヨーガ(ハタ・ヨーガの意味)、カースト、出家、迷信を否定。世俗の職業に真摯に励む。タバコ・アルコール飲料・麻薬は禁止。肉食は自由。
最終目標は輪廻転生による再生を繰り返した末に神と合一するムクティ。ヒンドゥー教と同様に輪廻転生を肯定しているが、カーストは完全否定。イスラームの影響もあると考えられている。宗教改革者カビールやラヴィダースの影響と、北インドのイスラーム神秘主義であるスーフィズムの影響が考えられる。思想の系譜としてはラーマーヌジャの孫弟子ラーマーナンダの弟子にカビールの影響を受けたグル・ナーナク。
パンジャーブ州の58%。改宗宗教で異教徒やインド人以外に対しても布教が行われる。日本には約2000人ほど。ムガル帝国時代に武器を持って戦った。技術に強くタクシー運転手に多い。イギリス統治時代のインドでは官吏や軍人として登用。髪の毛と髭を切らず、頭にターバンを着用する。女性もロングヘアー。サハジダリー。男性はシン(ライオン)、女性はカウル(王女)。国民会議派ではマンモハン・シング首相。アカリ・ダルはインド人民党と同盟関係で交互に州政権。
シク教の寺院はグルドワーラーと呼ばれ、小規模な寺院はダルバールと呼ばれる。寺院に入るには靴を脱いで頭の上にハンカチをのせて髪の毛を隠す。ターバンを巻くカールサーのメンバーへの配慮。グル・グラント・サーヒブを歌い、カラーパルシャード砂糖菓子神前供物を食べる。ランガルと呼ばれる食事が皆に振舞われる。チャパティー、パコラ。ヒンドゥー教徒がカーストが違う者と食事を共にしないことに対する批判。
兵庫県神戸市中央区野崎通2-1-15にグル・ナーナク・ダルバール。礼拝は毎週日曜日の午前11時半頃より行われ、午後1時頃に昼食が終わる。寺院内ではカールサー派に敬意を表して頭にハンカチをかぶって髪の毛を隠さなければならない。日本人のシク教徒もいる。
パンジャーブを中心に北インド一帯へ広がった。ムガル帝国領で宗教に寛容なアクバルの統治下で繁栄。1574年には第4代 グル・ラーム・ダースが、パンジャブ中心部にラームダースプル(現在のアムリトサル)を建設し黄金寺院の建設を開始した。黄金寺院は1604年に第5代グル・アルジュンによって完成され、聖典『アーディ・グラント』が置かれた。アルジュンはまた、信徒に対して生産物の10分の1税を課し、それまで喜捨に頼っていた教団の財政を大幅に強化した。アクバル死後、ムガル帝国と対立。1606年にはグル・アルジュンがムガル帝国の弾圧を受け死亡。
17世紀後半には10代目のグル・ゴービンド・シングが武装集団であるカールサーを組織。ムガル帝国の衰退とともに勢力を拡大。ゴービンド・シングは1708年に暗殺されるが、彼の死後グルは擁立されず聖典『グル・グラント・サーヒブ』が中心的な権威を持つ。
18世紀末にランジート・シングが1801年には首都をラホールに定めてシク教国を建国した。パンジャーブのみならずムルターンやカシミールまで勢力を拡大し全盛期を迎えた。1839年にランジート・シングが死亡すると内部は混乱し南に勢力を伸ばしてきたイギリスが介入開始。1845-46年の第一次シク戦争でシク教国は敗北し、ラホール条約によってカシミールやパンジャブの東半分をイギリスに奪われた。さらにイギリスの支配に反発した民衆は反乱を起こし、1848年には第二次シク戦争が勃発。1849年に全パンジャーブが英領になってシク教国は滅んだ。シク教国の滅亡によってインドは完全にイギリスの植民地となった。
セポイの乱でシク教団はイギリス政府に協力。事実上の中間支配層として繁栄。1919年にはそれまでイスラム教徒のみに認められていた分離選挙がシク教徒にも認められ1920年にはシク教の政治団体としてアカリ・ダル結成。1947年のインド・パキスタン分離独立に際し、シク教団はインド帰属を選択。パンジャーブ州のパキスタン領部分のからのシク教徒が難民となってインドへと流入。開祖ナーナクの生まれたナンカーナー・サーヒブや、シク教国の都であったラホールはパキスタンに属することとなった。
ネルーのもと政教分離は宗教上の理由での分離運動を認めないことを意味。分離選挙も、1950年に施行されたインド憲法において撤廃された。アカリ・ダルは言語州要求運動に加わりパンジャブ語話者が多数を占める新州の設立運動を1951年に開始。1966年旧パンジャーブ州はヒンディー語話者・ヒンドゥー教徒が多数を占める東部のハリヤーナー州と、パンジャブ語話者・シク教徒が過半を占める西部の新パンジャブ州へと分割された。
アカリ・ダルはヒンドゥー至上主義のインド大衆連盟ジャナ・サンガと連立して1967年に州政権を奪取。1977年には再びこの連立が州の与党となりハリヤーナー州と共用していた州都チャンディーガルのパンジャブ州編入を中央政府に要求。1980年代に入るとシク急進派のテロ頻発でパンジャブの治安が悪化。インド政府は1983年10月にパンジャブ州を州政府から大統領直接統治下に移した。1984年にはシク教徒の聖地・黄金寺院にたてこもるビンドランワレと過激派を排除するためインド政府軍を投入してブルースター作戦(黄金寺院事件)を起こし、6月6日にビンドランワレを殺害した。この事件はシク教徒の強い反発を招き、1984年10月31日にはシク教徒の警護警官により、インディラ・ガンディー首相が暗殺された。テロの連鎖は続き、1985年6月23日にはシク教徒によるインド航空182便爆破事件が起こった。ラジーヴ・ガンディー首相は直接統治を解除し再びアカリ・ダルの州政府が誕生した。1997年にはアカリ・ダルがパンジャーブ州の政権を獲得したが、2002年には国民会議派に敗れ下野。
2018年11月28日、パキスタン政府はシク教徒の巡礼用に、同国中部のパンジャブ州ナロワルとインド国境を結ぶ約4キロメートルの「カルタールプル回廊」の建設工事を開始した 。ナーナクが没した地とされる寺院へインドから行けるようにするため。インド国境から約4㎞の寺に行くのにインドのシク教徒はビザを取り寺から約70㎞離れた国境の検問所を通るか空路で近郊都市から入るしかなかったが回廊が出来ビザ無しで巡礼できるようになった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%AF%E6%95%99
ガッカはシク教徒に伝わる武術。グルドワーラーやクシュティの道場で稽古を行っている。ラージプート(クシャトリア階級の王族の一種)の古くからの伝統があった。ムガル帝国とシク教団との戦争で父のグル・アルジュンが殺害された仇を討つ為にグル・ハルゴービンドは護衛兵を備え彼らに武術を教えた。セポイの乱の鎮圧を助けた結果として武術への規制は緩和された。ガッカはインド帝国の陸軍によって主に練習された。1880年頃には、ラスミ(儀式中心)とケール(スポーツ中心)と呼ばれる2派に分かれた。国際ガッカ連盟が1982年に設立されて、そしてガッカは現在、スポーツや剣舞として人気があり、シク教徒の祭りでしばしば見られる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%83%E3%82%AB
戦うヒーローのイメージ。ボリウッドで存在感を増すシク教徒映画。『フライング・ジャット』の「ジャット」(※正確な発音は「ジャト」)は、北インドに住む、農業に従事するカースト集団の名称。「ジャット」と聞くとターバンを被ってヒゲを生やしたシク教徒を連想する人も多い。母の作った水色のコスチュームを着けターバンを被ったアマンは父親に生き写し。高所恐怖症のヒーロー「フライング・ジャット」の活躍が始まる。