ブータン難民
弱いもの同士の争いを放置していて良いのか。家や食料を与える事だけが弁務官の仕事ではない。調定や仲裁。緒方さんは高等弁務官としてのプロの仕事をやり遂げた。緒方さんにお目にかかったのはブータン難民を取材していた時。日本では、アフガン特使のブラヒミ氏とも引き合わせてもらった。
国連難民高等弁務官や国際協力機構(JICA)理事長として活躍し、世界各地の難民の支援に力を尽くした緒方貞子さんが2019年10月22日に死去した。92歳だった。JICAが29日に発表した。安倍首相は「積極的に現場に足を運ぶ『現場主義』を徹底されました」と哀悼のメッセージを発表。国連のグテーレス事務総長は「彼女の功績により、何百万もの人がよりよい人生と機会を得ている」と追悼した。
緒方さんは1927年、東京都出身。76年に日本人女性として初の国連公使となり、国連人権委員会日本政府代表などを歴任した。1991年1月、女性として初めて国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のトップに就任し、2000年まで務めた。
トルコとの国境周辺にとどまる大勢の国内避難民の支援。国外難民も国内避難民も同じ。人道問題だけではなく国際問題を国境という線で区別することはできない。国外に逃れた難民だけを支援対象としていた国連の考えを根本から変えるものだった。冷戦後の地域紛争の時代に、内戦のボスニア・ヘルツェゴビナや民族虐殺のルワンダで、人命優先の難民政策と進めた。それは「人間の安全保障」と呼ばれ2012年の国連総会で「人間の安全保障」を重視する決議が全会一致で採択された。2001年からはアフガニスタン支援政府特別代表となった。
緒方さんの『現場主義』を直接見たのはブータン。「幸せの国」ブータンから追われた不幸な少数民族ローツァンパ。1990年代に無情にも国を追われたローツァンパ(Lhotshampa)の人々は、GNHの蚊帳の外に追いやられたままだ。1985年に当時の国王が「一国一民族(One Nation, One People)」政策を掲げると、ネパール語を話すローツァンパは市民権を剥奪され、「移民」というレッテルを貼られることになった。仏教徒が大部分を占めるブータンで、ヒンドゥー系の人々が、伝統衣装を身に着けるよう強要されネパール語を話すことが禁じられた。国際人権団体アムネスティ・インターナショナル(Amnesty International)は、逮捕、レイプ、拷問の例も報告している。
自発的にブータンを離れるいう宣誓書に署名した、全人口の6分の1にあたる約10万人がブータンからネパール東部の難民キャンプに避難した。ネパールの人々を悪者にすることもできない。それはネパールの現場を知っている人ならわかる。
難民・避難民の保護は急務。国連では多くの日本人が活躍するようになったが、緒方さんの域とはやはり異なる。巨星への哀悼だけでは足りない。大事なのはプロの仕事のあとを誰が継ぐのかということだ。