イルファン・カーンが演じた警官、弁当男、パル判事の映画から思い出したことをまとめてみました

目のまわりの隈が初老の男性の弱弱しさと哀しさを演出していて存在感のある俳優だった。映画『スラムドッグ$ミリオネア(Slumdog Millionaire)』などへの出演で知られるインド人俳優のイルファン・カーン(Irrfan Khan)さんが死去した。53歳。2020年4月29日明らかになった。神経内分泌腫瘍を病み、結腸感染症でムンバイの病院に入院していた。

 ボリウッドには、三大カーンがいる。シャー・ルク・カーン、アーミル・カーン、サルマン・カーン。1965年生まれのイスラム教徒。4人目カーンのサイーフ・アリー・カーンもいるが、いずれもイケメン系。イルファンカーンは、性格俳優。強さよりも弱さ。画面に映っているだけで動かなくてもいい存在だった。1967年1月7日生まれ。カーンという名が示すようにイスラム教徒の家に生まれた。国立演劇学院(National School of Drama)で学び、1980年代後半からテレビドラマの脇役などをしていた。遅咲きの俳優。モディ首相はツイッターで、「世界の映画や劇場にとって大きな喪失。多彩な演技は記憶に残される」。

 『スラムドッグ$ミリオネア』では警察官を演じた。2008年のイギリス映画。第81回アカデミー賞では作品賞を含む8部門を受賞。ムンバイの中にあるスラム、ダラビ地区で生まれ育った少年が、テレビの人気クイズ番組『コウン・バネーガー・カロールパティ』に出演。数々の問題を正解し最後の1問に到達したが不正の疑いがかけられ警察に連行される。インド人外交官のヴィカス・スワラップの小説『ぼくと1ルピーの神様』を映画化。
 ヴィカス・スワラップはインドの外交官・小説家。インドの外務省に勤務し、2009年8月から2013年7月にかけて、在大阪インド総領事として日本に赴任していた。2015年からはインド外務省の報道官を務めた。

 『めぐり逢わせのお弁当』では初老の孤独な男性を演じた。インド・フランス・ドイツ合作のドラマ映画。夫のために作った弁当が別人に届けられてしまったことをきっかけに弁当の中にいれた手紙で若い人妻と文通をする。早期退職を間近に控えた気難しい初老の男サージャン。妻を亡くして孤独に暮らしていた。2人は互いに惹かれ合って行くが結ばれるかどうかは描かれない。第66回カンヌ国際映画祭国際批評家週間観客賞。
 インドのお弁当箱は三段式のステンレス製で大きい。「ダッバーワーラー」が各家庭から集めた弁当箱を昼までにそれぞれの職場へと届ける。ムンバイでは、約5000人のダッバーワーラーがいて、毎日約20万食の弁当が運ばれているという。料金は月額300~350ルピー(約500~600円)。色・数字・記号を弁当箱に書く。運命のめぐりあわせ。

 2016年には日、蘭、加合同制作によるNHKスペシャルドラマ『東京裁判』でインド派遣の判事、ラダ・ビノード・パール(1886年1月27日 – 1967年1月10日)役を演じた。パール判事のことを振り返っておきたい。インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。専門の論文は「『マヌ法典』前のヴェーダおよび後期ヴェーダにおけるヒンドゥー法哲学」。
 極東国際軍事裁判(東京裁判)で連合国が派遣した判事の一人。判事全員一致の有罪判決を目指す動きに反対し、平和に対する罪と人道に対する罪は戦勝国により作られた「事後法」であり、事後法をもって裁くことは国際法に反するなどの理由で被告人全員の無罪を主張した。「パール判決書」として知られる「意見書」。なぜ無罪を主張したのか議論は多い
 パールは裁判の方向性が判決ありきの茶番劇であるとの主旨で裁判そのものを批判し、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断から被告の全員無罪を主張したとされる。日本の戦争責任が存在しないという立場ではない。バターン死の行進については残虐なものだったとしている。
 パールの考え方にオランダから東京裁判に参加したベルト・レーリンク判事が共感。パール判事の影響を受けるようになった過程がNHKのドラマに描かれた。『パール判決書』の中で、『ハル・ノートのようなものをつきつけられれば、モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえ戦争に訴えただろう』。」としている。『パール判決書』について東條英機が残した歌「百年の後の世かとぞ思いしに今このふみを眼のあたりに見る」。ふみは意見書。
 ジャワハルラル・ネルー首相は自説を曲げないパールについて、意見書はあくまで一判事の個人的見解とした。2006年12月14日に来日したマンモハン・シン首相は、衆議院での演説の中で、「戦後、ラダ・ビノード・パール判事の下した信念に基づく判断は、今日に至っても日本で記憶されている。こうした出来事は、我々の友情の深さと、歴史を通じて、危機に際してお互いに助け合ってきた事実を反映する」。2014年8-9月に来日したモディ首相は、9月1日に開かれた安倍晋三首相との夕食会の中で「パール判事が東京裁判で果たした役割は我々も忘れていない」。
 パールは1952年11月3日より4日間、広島市を訪問。講演で、「いったいあの場合、アメリカは原子爆弾を投ずべき何の理由があっただろうか。日本はすでに降伏すべき用意ができておった」。原爆死没者慰霊碑の碑文「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」をナイルの通訳を通して聞いた。「原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手は、まだ清められていない」。本照寺の筧義章住職の要望で作られた代わりの碑文「大亜細亜悲願之碑」。「抑圧されたアジアの解放のため その厳粛なる誓いにいのち捧げた魂の上に幸あれ(一部)」
 1966年10月に岸信介らの招きによる四度目の来日の際に昭和天皇から勲一等瑞宝章を授与された。1967年1月10日、カルカッタの自邸にて死去。82歳。神奈川県箱根町には下中彌三郎・パール両名を記念するパール下中記念館があり、東京裁判で用いた法服などが展示されている。1997年11月、京都市東山区の京都霊山護国神社にインド独立50周年を記念して顕彰碑が建立され、パールの長男夫妻が来日し除幕式が行われた。終戦60周年の2005年6月には靖國神社にも顕彰碑が建立された。
 警察官、弁当男、国際判事と様々な役を演じられる俳優はインドのいろいろなことを教えてくれた。

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