リモートがコロナ後の参拝のニューノーマルに影響するのか、東大寺が参拝再開

日本を初めて訪れたインド人の菩提僊那(ボディセンナ)が開眼導師を務めたのが奈良の東大寺だ。当時日本では天然痘の大流行があり、仏教を深く信仰した聖武天皇は廬舎那仏を鋳造し厄災に荒れる国土を回復しようと祈願した。世界を未曽有の危機に追い込んでいる新型コロナウイルスも人々の心に中に大きな不安を作りだしており宗教が果たすべき役割は大きい。しかし人々との「接触」を必要とする宗教と、「非接触」を前提とする医療との両立が難しくなった。
 菩提僊那ゆかりの東大寺では5月末まで、「三密」を避けるため本殿内に入らず大仏さまを中門付近から「遙拝」していただくことにしていた。拝観停止中は、盆や元旦など年に10日ほどしか開けない大仏殿正面の「観相窓」を開け、遠くから窓越しに拝んだ。こうすると視覚効果で大きな大仏がさらに大きく見える。
インターネットで東大寺ミュージアムを紹介し、大仏殿では4月1日から毎日コロナ禍の終息、罹患された方々の快復などを祈って僧侶が読経を勤めた。ニコニコ動画での祈願配信は宗教のニューノーマルとして注目された。ニコ動のフォーマットだから画面に文字が横流れする。仏様に申し訳ないという気もする一方、衆生の声が川のように流れているようにも見える。それもありなんとする東大寺の大仏の大きさも感じる。
 東大寺では40日ぶりの大仏の拝観再開となった。緊急事態の解除もあり、4月24日以来大仏殿に入ることができるようになった。お守りや御朱印の受付に飛沫感染防止用の仕切り。

 奈良の大仏をリモート参拝はいろいろな意味で注目だった。ニコ生で24時間絶賛生中継。参拝といえるのか、参拝する側は見ていないかもしれないし、枕元で流れているのかもしれない。病室や海外の人々への「アクセス」を提供した。

 東大寺の開眼供養が行われたのは天平勝宝4年(752)4月9日。鋳造に3年をかけた大仏の開眼の筆を執ったのはインドから大安寺に来ていた渡来僧・菩提僊那(婆羅門)僧正。大仏造顕を発願し、開眼を見届けた聖武天皇は開眼から4年後の天平勝宝八歳(756)5月2日に崩御した。東大寺ミュージアムでは、聖武天皇、菩提僊那、行基、良弁などの東大寺創建に関わった人々を描いた「四聖御影」、菩提僊那の事績が書かれている「南天竺婆羅門僧正碑註(」など東大寺が所蔵する聖武天皇、菩提僊那ゆかりの品々を展示している。

 菩提僊那[704~760]は奈良時代のインド僧。文殊菩薩を慕って中国に渡り、天平8年(736)遣唐使の要請で来日。東大寺大仏開眼供養の導師を務めた。婆羅門(バラモン)僧正。インドのバラモン階級に生まれ、唐では長安の崇福寺を拠点に活動していたとされる。736年(天平8年)に来日。九州の大宰府に赴き行基に迎えられて平城京に入大安寺に住んだ。華厳経を詠む。760年(天平宝字4年)2月25日、大安寺で合掌したまま死去したとされる。
 天然痘は天然痘ウイルスを病原体とする感染症で、昔は疱瘡と呼んだ。強い感染力を持ち全身に膿疱が生じ致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。治癒後にあばた・瘢痕を残す。天然痘は人類が初めて根絶に成功した感染症。もともと日本には存在しなかった。新羅に派遣されていた遣新羅使の往来などによって同国から流入したとするのが通説。『日本書紀』には「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者――身焼かれ、打たれ、摧(砕)かるるが如し」とある。
 735年から738年にかけては西日本から畿内にかけて大流行し平城京では政権を担当していた藤原四兄弟が相次いで死去した(天平の疫病大流行)。この時、奈良に大仏が造営された。「独眼竜」の奥州の伊達政宗が幼少期に右目を失明したのも天然痘によるもの。日本でも何度も大流行を重ねた。「米百俵」の小林虎三郎。上田秋成。東山天皇。源実朝、豊臣秀頼、吉田松陰、夏目漱石も顔にあばたがあった。吉村昭の時代小説『破船』には、天然痘患者が赤い衣装を身にまとう描写がある。疱瘡神としての源為朝の肖像は「疱瘡絵」(赤絵)と呼ばれた。アイヌは、水玉模様の着物を着た疱瘡神「パヨカカムイ」が村々を廻ることにより天然痘が振りまかれると信じた。
 天然痘の予防接種はを呼びかけるポスター種痘接種部位に終生残る瘢痕を残す。直径2cm程度。天然痘の免疫性は古くから知られ、紀元前1000年頃には、インドで人痘法が実践されたという。天然痘患者の膿を接種し軽度の発症を起こさせて免疫を得る。膿を乾燥させてある程度弱毒化。この人痘法が18世紀前半に英米に伝わった。あとは牛痘法。ジェンナー。
 天然痘は感染した場合肉眼で判別可能な症状が現れる。記憶にも残る。発病がヒトのみ。ワクチンも開発された。1958年に世界保健機関 (WHO) 総会で「世界天然痘根絶決議」可決。中でも最も天然痘患者が多かったインドでは、根絶が困難とされたが、天然痘患者を発見したものに賞金を与え患者に接触した人々に集中的に種痘を行った。1967年の時点で、世界には天然痘の患者が1000万から1500万人いると推定されていたが、インドで天然痘患者が激減した。
 1977年のソマリア人青年のアリ・マオ・マーランを最後に自然感染の天然痘患者は報告されておらず、3年を経過した1980年5月8日、WHOは地球上からの天然痘根絶宣言を発した。「バーミンガム事件」を除く。

 1974年のインド天然痘流行は20世紀最悪の天然痘流行の一つとなった。1951年には157,487件の天然痘症例をだしていた。これは全世界で報告された天然痘症例の半数近いもの。1972年には20,407件、前年の1973年には88,109件と増え、1974年は15,000人以上が天然痘によって死亡した。ビハール州・オリッサ州・西ベンガル州に集中発生。天然痘撲滅プロジェクトが世界保健機関によって始められたが、インド政府の間で物流に関する合意が結ばれずなかった。1975年5月24日の患者が最後のインド人患者であると認定され4年後の1979年、天然痘は世界中で根絶されたと認定された。

 東大寺には6年間通った。大きな力を信じたい。(画像)

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