【インドの州】2:アルナーチャル・プラデーシュ州

アルナーチャル・プラデーシュ州はインドが実効支配している領域に設置された州。中国では蔵南とも。南はアッサム州、東はミャンマー、北はチベット自治区、西はブータンと接する。中国との国境はマクマホン・ラインをインド側は主張するが中国は認めず1962年の中印国境紛争の一因となった。
 1911年に辛亥革命を経て清朝の主権が弱体化。モンゴルで独立運動が外蒙古の諸王公はロシア帝国の力を頼って清からの独立を決意し、1912年に新たにモンゴル国が成立した。1913年-1914年にチベットと中国の紛争を調停したシムラ会議が開かれたがシムラ条約の批准(1914年)はイギリス、チベットの2者のみの参加にとどまった。イギリスの全権をつとめたマクマホン卿は英領インドのアッサム地方とチベットとの境界をチベット側に受諾させた。これがマクマホンライン。マクマホンラインはチベット系住民の分布領域の境界より相当北方に位置するヒマラヤの嶺線付近に引かれている。チベットを中国の一部分だと主張する中華民国の歴代政権、中華人民共和国政府ともこのラインを中国とインドとの国境として承認することを拒否。1959~1960年にかけては、インドと中華人民共和国政府の間で武力衝突が勃発。東西の紛争地帯でいずれも中国軍がインド軍を圧倒し中国は、西部紛争地域(アクサイチン地区)では自身が主張する領域に実効支配を確立。東部紛争地域では、一時的には全域を確保しながら、一方的にマクマホンライン以北へ撤兵した。インドは中国との武力衝突以後、この地域に対する実効支配をより強固にするため、インフラの整備につとめ、1987年にアルナーチャル・プラデーシュ州を設けた。

 シムラ会議は1913~14年インドのシムラで開かれたチベットの独立に関する中国、イギリス、チベット3者間の会議。 11年辛亥革命が勃発してチベットにあった清軍は敗退し,インド亡命中のダライ・ラマは急いでラサへ帰りチベット独立を宣言し,イギリスもこれを支持する強硬な覚え書を中華民国政府に送った。12年夏,中国の主権の回復を目的として四川軍がチベットに進入し,このため中英間の外交交渉が始り,13年 10月からシムラで3者代表会議が開かれた。14年4月27日中国イギリス、チベット3者は暫定協定 (草案) に仮署名したが,中国政府は署名の2日後に自国代表の全権委員を取消し,これに正式署名の権限を与えない旨を声明した。イギリス側は中国政府に対して,中国側が正式署名を拒絶するならばイギリスとチベットの両者代表のみで正式条約とする準備があると申入れた。7月中国とチベットの両代表はともにシムラを引揚げるにいたり,やがて第1次世界大戦が勃発し,会議は決裂のまま放置されることになった。
 中国政府が正式署名を拒否した理由は,暫定協定 (草案) 第1条の境界線問題に対する反対であった。のち 19年に中英両国間でシムラ会議の再開が論議されたが,結論に到達しなかった。
 シムラー協定は1972年7月2日にインドとパキスタンの間で締結された別の協定。ヒマチャルプラデシュ州の州都シムラーで調印された。

 アルナチャルは、一回では書ききれない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください