五輪と法輪

リオ五輪でのインドのメダル獲得数は2個。1900年以降のメダル数は、アメリカの競泳選手フェルプスが一人で獲得したのと同じで28個。少し寂しい気がするが、インドには数では語り切れない数々の物語がある。1960年。ローマ五輪陸上400メートル決勝で金メダル獲得が確実視されていたインド代表、ミルカ・シンが、ゴール手前で後ろを振り返るという不可解な行動に出て、記録は4位に終わった。
ミルカ・シンはインドの伝説的な陸上中短距離のアスリート。1930年頃にイギリス領インド、パンジャーブ州ゴーヴィンドプラ村、今のパキスタンに生まれたミルカは、1947年の印パ分離独立によりインドのデリーに移住。 その過程で孤児になり、難民キャンプで一時期を過ごしたこともある。1951年に陸軍に入隊。ハイデラバード近くの勤務地で陸上を出会う。1956年には、メルボルン・オリンピックに出場するが、200mと400mのいずれも予選落ち。しかし、1958年。インド国体で200mと400mでインド新記録を樹立。東京でのアジア大会に出場し200mと400mで金メダル、大会新となった200mは、パキスタン代表のアブドゥル・カーリク選手と0.1秒差だった。英連邦大会でも400mで金メダルを獲得し国民的英雄となったミルカは、翌年パドマーシュリー勲章を授与されだ。非公式との説もあるが、1960年のフランスでの競技会で45.80の世界新記録を出した。
そして迎えた1960年。ローマ・オリンピック出場~200mと400mに出場。
 映画『ミルカ』はローマ・オリンピックの会場に本人そっくりの俳優ファルハーン・アクタルが演じるミルカがゴール前までトップを走る場面が描かれる。ところが、コーチが叫ぶ「ミルカ、走れ(バーグ)!」という言葉に、印パ独立の混乱の中で命を失った亡き父の悲痛な叫び「ミルカ、逃げろ(バーグ)!」を重ね合わせてしまう。後ろから叫んでいた父親を振り返るかのように、ゴール目前で背後を振り向いてしまう。シク教徒だったミルカの父親は、分離独立の混乱の中で、ミルカを残し、故郷の村でイスラム教徒に殺された。印パ分離の際に、異なる宗教の人々が指定された居住地域に強制的に移住させられた。シク教徒もその犠牲者となった。
400メートルは陸上短距離の中でもっとも過酷といわれている。人間の無酸素運動の限界といわれる40秒を超えたところが勝負の分かれ目になっているからだ。
 メダル獲得に大きな期待を寄せていたインド国民はミルカが後ろを振り向いた理由を理解できず彼を非難する。オリンピック後に行われるインドとパキスタンの親善陸上試合で務めることになっていた団長を辞退。「パキスタンには行かない」と言い出す。ネルー首相の説得もあり、パキスタンに向かったミルカは、大統領から「フライング・シーク(Flying Sikh)」の称号を与えられる。
 ミルカ・シンの息子は、プロゴルファーのジーヴ・ミルカ・シン。インドを代表するゴルファーとして2006年ごろから活躍をはじめ、日本ツアーのカシオワールドオープンとゴルフ日本シリーズで2週連続優勝を達成。2007年にインド人選手として史上初のマスターズ出場者となった。


 ミルカ・シンは、1964年の東京オリンピックでは予選落ちに終わったが、インドの女子バレーボールチームの元キャプテンを務めたNirmal Kaurと結婚し、3人の娘と1人の息子。ゴルファーのシン。ゴルフの英雄となった自慢の息子ほかに、夫妻にはもう一人息子がいる。 タイガーヒルの戦いは、1999年5月のカルギル戦争の間に、インド軍とパキスタン軍の間でタイガーヒルの頂上付近で戦った戦い。タイガーヒルからのパキスタンの侵入者を撃退するために、インド軍の3つの大隊が参加した。36時間に及ぶ激戦で38人のインド兵士と、パキスタン兵士が戦死した。1999年のカルギル危機の、タイガーヒルの戦いで亡くなったハビルダール・ビクラム・シンの7歳の息子を養子にしている。

(レスリング)
 リオ五輪では、バドミントン(女子シングルス)でシンドゥ・プサルラ選手が銀メダルを、レスリング(フリースタイル女子58キロ級)でサクシ・マリクが銅メダルを獲得した。リオで好成績を挙げたインド人選手は女性。マリクの出身地のハリヤナ州は、レスリングの盛んな地域だが、女性が試合に出場することに大きな抵抗があった。
 レスリングは、映画の実話をもとにした「ダンガル」がインドならではの事情を巧みに描いている。
 アマチュアレスリングのインド代表になったマハヴィルは国際大会でインド人選手初の金メダルを目指すが、父親から生活苦を理由に反対され引退を余儀なくされる。マハヴィルは息子に自分の夢を託そうと考えるが、生まれてくる子供は娘ばかりで、彼は夢を諦めてしまう。ところが父親の特訓を受けた姉妹のレスラー、ギータ(姉)とバビータ(妹)選手が思わぬ実力を発揮する。ギータは2010年コモンウエルス(英連邦)大会での優勝を経て、2012年3月のオリンピック・アジア予選55kg級で優勝。ロンドン大会出場を決め、インドの女子選手として初めてオリンピック出場を果たした。インドの女子選手に「頑張ればオリンピックに出場できる」という希望を与えた。2016年は国内予選でサクシ・マリクに敗れ、マリクが最終予選で2位に入ってリオデジャネイロへ。銅メダルを獲得した。

 インド選手団はイギリス領時代の1900年のパリ大会からオリンピックに参加している。1964年からは冬季オリンピックにも参加しているが、これまで最も多くメダルを獲得したオリンピックは、2012年ロンドンオリンピックでの6個。
 インド選手がオリンピックで好成績を挙げられない背景には、構造的な理由がある。
 2012年ロンドン五輪の時、インドはメダル獲得数55位で、金0、銀2、銅4、合計6個のメダルを獲得している。 リオでは2個。陸上女子マラソンで完走直後に倒れたインドのジャイシャ・プティヤビーティル(O.P. Jaisha)33歳が、レースで衰弱したのはインド陸連から水が支給されなかったからだと主張した。「ほかの国は2キロメートルごとに補給地点があったのに、私の国だけ空っぽだった」と陸連の対応を批判した。
 二〇一八年の一月の演説でモデイ首相は「インドの成長には軍事力や経済力だけではなく、スポーツも含まれなくてはならない」と宣言。モディ氏はアスリート育成プロジェクトの「プレー・インディア」構想を立ち上げている。インドが先進国の仲間入りのため力を入れるのが五輪招致だ。五輪開催を契機に経済大国の仲間入りを日本や中国の後を追いたい。 インド政府は選手に奨励金を出すなろ東京五輪に向けた対策を取っている。バドミントンやホッケーなど二〇〇人近い選手を強化対象として、メダリストには報奨金も用意するという。そして、アジアで四都市目となる二〇三二年の夏季五輪招致を目指し、IOAがIOC・国際オリンピック委員会に開催の意向を伝えている。この年は韓国と北朝鮮も五輪共催を目指しており競争は厳しい。筆者は、ナショナルチームが練習するというニューデリーのトレーニングプールを使用させてもらっていたが、タイムを計る時計もなかった。オリンピックへの道は険しい。
 クリケット以外は高校や大学でスポーツが重視されておらず、東京五輪で多くのメダルを獲得したいなら女子選手の強化が近道かもしれない。ただそれ以前に重要なのは、スポーツ文化の育成だ。インド人は、柔軟性、集中力、素早さが求められる、バドミントン、射撃、体操などが得意。これからの可能性は大きい。 
 東京オリンピックのインド亜大陸での放映権を獲得したのは、ソニー傘下のソニー・ピクチャーズ・ネットワークス・インディア(SPN)。インドの巨大市場は、スポンサー企業や広告会社にとり魅力が大きい。IOCのバッハ会長は「スポーツとメディア市場の強さを考えると、インドとインド亜大陸は重要な戦略的地域だ」と述べている。 ###

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