タイのアヨーディア
クーデター後軍主導の暫定政権が続くタイで総選挙が行われた。ラーマ王子の伝説ラーマーヤナがタイに伝わった時期は、11~12世紀頃。タイの首都バンコクの北にある古都アユタヤは、14世紀中頃、アユタヤ朝の都として築かれました。アユタヤという王朝名は、ラーマーヤナの王国の都、「アヨーディヤ」からきている。初代の王「ラーマーティボディ1世」はラーマ王を意味する。タイの王室とインドのとの結びつきは深く歴史がある。
18世紀後半にアユタヤ朝は、ビルマ勢力の侵攻を受けて滅亡したが、タイ人がそれを撃退して、再び王朝を作った。バンコクに首都を置き、現在までつながるチャクリ朝では、王の名前を代々ラーマ1世、ラーマ2世と呼ぶ。王宮の隣にあるエメラルド寺院は、仏教の寺院だが、壁面はラーマーヤナの色彩豊かな壁画で飾られている。
戦後、両国の国際的な立場は食い違ってきた。親米のタイと非同盟路線をとるインドで接点がない。当時は、地域機構の枠組みがなく、今もインドはAPECに入っていないように両者をくくる枠組みは多くない。東南アジアは、インドシナが民族解放運動と東西冷戦のアジアでの舞台となっていたため、インドとタイの違いは大きな問題にはならなかったが、両者の間には大きな食い違いがあった。タイは、インドシナの解放勢力とフランスの戦いの中で、解放勢力側を支持したが、共産主義勢力が力を伸ばすようになると、警戒感を強めた。特にベトミンがラオスに浸透し、東北タイのベトナム難民の中での北ベトナムの影響力が無視できないようになると、154年にはSEATOに参加し、国家防衛の手段をとるようになる。SEATOには、当時のパキスタンも参加しており、タイはインドと対峙する側の軍事同盟に加わることになる。タイは、バンドン会議でもタイとインドの立場は異なる。中国とインドが提唱した平和5原則は、パキスタンが反対の立場に回り、タイもこれに同調した。この会議のあと、タイは中国への接近を始める。
タイとインドは、陸では国境を接してはいないものの、今特に注目を集めているインド洋の海軍協力と分野むでいうと、交流や交渉の歴史は長い。アンダマン・ニコバル諸島は、インド洋のベンガル湾南部のインドの連邦直轄領。主都はポートブレアの沖は、マラッカ海峡への航路にあたり、防衛戦略上の要衝となっている。