新紙幣の渋沢

麻生太郎財務相は一万円、五千円、千円の紙幣と500円貨幣を全面的に刷新すると発表した。現在の紙幣は2004年発行。2024年度上期を発行予定の一万円札に登場するのは、明治の実業家、渋沢栄一だ。渋沢は、インドの綿を日本の紡績事業の原料にしたいと考えた。まだ関税自主権がなかった当時、殖産興業の方針の下、競争力のある製品を作るにはインドの安い綿が必要だった。当時用いられていた和歌山や三重などの西日本の国産綿はコストが高い上に、繊維が短いため糸を紡ぐのが難しく、殖産興業を軌道に乗せるには安い綿花を輸入する必要があったのだ。 
 一九八三年、イギリス植民地支配の下にあったインドから、タタ財閥の創業者ジャムシェトジー・タタが来日し、二人が会談。インドから直接綿を買い付けるインド航路の貿易に道筋をつけた。このときの様子を渋沢栄一はこのように述べている。
「総体貿易と云ふものは双方の国を益するものであります。日印に就いて云へば、日本も益しますと共に、印度も大いに益するのであります。(中略)国家というより、むしろ全世界の富を増やす方法であります。ゆえに貿易は戦争とは違いますと申したのでございます」(「渋沢栄一伝記資料 第三十六巻」)
 渋沢の言葉からは、二国間の関係にこだわらない、グローバルな視点がうかがえる。明治時代に、日本とインドの関係を、こんな風に考えていた人もいたのだ。
 新紙幣では、3Dや3Dホログラムなど世界最先端の偽造防止技術が搭載される。額面の数字を大きくするなど、ユニバーサルデザインの考え方を踏まえた改札になる。麻生氏は「景気刺激を考えてやっているわけではない」と説明、令和への改元ともタイミングが「たまたま重なっただけ」としている。
 渋沢は、いまのみずほ銀行のもとになった第一国立銀行や、東京ガス、東京海上火災、王子製紙、帝国ホテル、田園都市線などを次々に創設した。三井、三菱とは一線を画し、財閥は作らず政界からも独立していた。大隈重信侯爵、長岡護美とともに日印協会を創設している。

「交際の奥の手は至誠である」

人との付き合いで大切なのは、相手に誠意を尽くす事にあるという渋沢栄一の言葉は重い。 韓国では最初の紙幣の顔は渋沢栄一だった。

日本が統治していた1912年に朝鮮銀行本店として建設された、現在の韓国の中央銀行の韓国銀行の貨幣博物館には、歴史的紙幣として渋沢栄一の肖像画が描かれたものが保存されている。この紙幣が発行されたのは、韓国併合の8年前に当たる1902年。当時渋沢は日本最初の銀行である第一銀行の頭取。朝鮮半島を統治していた大韓帝国はソウルに支店があった。第一銀行は1878年の李氏朝鮮時代に朝鮮半島に進出し、日本の貨幣が朝鮮半島でも流通した。日清戦争後の三国干渉で朝鮮半島でのロシアの影響力が強まり、日本の貨幣の流通量は激減。第一銀行は、大韓帝国の許可無しに実質的な紙幣と約束手形を発行し、大韓帝国が1905年に正式な紙幣として承認した。その紙幣に、頭取である渋沢栄一の肖像画が描かれていた。韓国から見れば、初めての紙幣の肖像画が日本人という形になった。

紙幣への肖像画採択は、インドとの間は、相互利益の交流の絆を深める意味のものであってほしい。

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