教会標的

スリランカでのテロの始原は、インドからの巨大な軍の投入に対する抵抗手段としての自爆攻撃だった。1987年の争乱。教会が対象となり不特定多数の殺傷や恐怖の流布をもたらすことを目的とするものであれば、これまでのテロと質的に異なるものになる。
スリランカで21日午前9時ごろ、最大都市コロンボとその郊外などにあるホテルと教会の合わせて6か所で、ほぼ同時に爆発があり、138人が死亡した。爆発があったのは、コロンボにある「キングスベリー」「シナモン・グランド」「シャングリラ」の3つのホテルと、「セント・アントニー教会」、それにコロンボの郊外にある「セント・セバスチャン教会」、バティカロアにある「ザイオン教会」の合わせて少なくとも6か所。スリランカ政府は402人がけがをしたと発表。教会ではキリスト教徒たちが復活祭、イースターの祈りをささげている最中だったとされている。
地元のテレビ局が伝えた教会建物内部の映像では、屋根は吹き飛び、床にがれきが散乱し礼拝用の椅子も壊れた。
スリランカの内戦では1983年から20年余りにわたり独立を掲げる少数派タミル人の武装勢力と政府軍との間で7万人以上が犠牲になった。2009年に政府側が武装勢力を武力で制圧して内戦は終結。 国内の治安は比較的安定していた。
 シリセナ大統領は国民に向けてテレビ演説を行い「背後に誰がいるのか徹底的に調べる」と述べたが、これまでのスリランカでのテロとは異質な部分が多い。同時多発の例は少ない。教会標的も例が少ない。
イギリス統治時代を思わせるセント・アンソニー教会は、コロンボフォート駅近くに位置し、西洋風のデザインが目を引く。華美な装飾はなく街に馴染んでおり、建物内部も質素でシンプルな美しさが駅前の混雑と対照的。地元の教徒が多く訪れる。
 セント・セバスチャン教会があるニゴンボはまた多数の宗教が共存する都市。植民地時代以降、カトリックが多数派を占め、仏教、ヒンドゥー教、イスラム教が併存する。「リトル・ローマ」という愛称で、ポルトガル時代に美しい建築物が建てられた。ニゴンボ全体では20以上のカトリック教会が存在している。
 ザイオン教会があるバティカロアは、州都トリンコマリーから南東に100キロ余り。コロンボと反対側の東海岸。風光明媚な場所はラグーンで知られるが、激しい内戦の舞台になった。

キリスト教史を研究するフィリップ・ジェンキンスによると,キリスト教世界の重心は西洋から非西洋アフリカやラテン・アメリカ・アジアへと移りつつある。1900年には世界のキリスト教徒人口の3分の2はヨー ロッパにあったが,2000 年代には 4 分の 1 以下になっており,2025 年には 20%以下になるだろうと考えられている。西洋で非キリスト教化が進み、アフリカのキリスト教徒人口は,1900 年には 1 千万人であったが,2000 年には 3 億 6000万人になったといわれる 。
 非西洋社会においては,多くの場合キリスト教徒はマイノリティであり,キリスト教の影響力の拡大によって既存の社会との間に軋轢が生まれることも多い。インドではキリスト教徒の布教活動を主な標的とした反改宗法がいくつかの州で成 立している。オリッサ州では 1967 年に,マディヤ・プラデーシュ州では 1968 年に,アルナーチャル・プラデーシュ州では 1978 年に反改宗法が成立し,タ ミル・ナードゥ州でも 2002 年 10 月に立法化された 。インドのキリスト教徒 人口は公式統計では総人口の 2.2%だが、改宗を表明しない 人々も多く,実際は 7.3% にもおよぶという調査もある。
 スリランカでは仏教徒からの反発があった。アメリカのキリス ト教団体の調査によると,2004 年 7 月までの 10 年間におけるスリランカのキ リスト教徒への人権侵害は 317 件におよんだ。その内訳は,殺人が 2 件,放火 が 21 件,暴行が 90 件,脅迫が 204 件あった。さらに 2004 年以降には反改宗法案が数度にわたって提出された。スリランカではキリスト教徒と多数派である仏教徒の間の対立は明らかにより深刻なものとなっている。川島耕司氏の論説が詳しい。
 仏教徒とキリスト教徒との間の大きな暴力的な対立はすでにイギリス植民地 時代の 1883 年に起こっている。これはシンハラ・ナショナリズムの形成過程 で生じた事件であったが,そもそもこのイデオロギーは 19 世紀における反キリスト教的な仏教復興運動に起源をもつものである。しかしその後,このイデオロギーの標的はムーア人と呼ばれるムスリムやインド人労働者へと移り,独
立後の最大の標的はスリランカ・タミル人たちになった 。宗教的よりも言語的,あるいは民族的なアイデンティティが強調されるようになった。1950 年代以降のいわゆるシンハラ・オンリー政策によってシンハラ語の重要性が強調されるなかで,キリスト教対仏教という対立軸はかなりの程度弱まった。逆に,キリスト教徒内でもシンハラ・タミルの対立は深まっていった。
 キリスト教の拡大を警戒する動きは確実に強まった。すでに 1980 年に は,反キリスト教的なジャヤガラハナヤ(Jayagarahanaya: SUCCESS とも呼ばれる)という集団が設立されていた。このメンバーの多くは法律家で,キリスト教への「非倫理的な」改宗から仏教を守ることを目的としていた。
 ジュビリー・キャンペーンの調査によると,全国キリス ト教フェローシップ(National Christian Fellowship)という福音派の諸教団を 統括する団体の女性聖職者は,1992 年から 1997 年まで仏教僧たちから死の脅迫を受けていた。彼女はその後教会内から引きずり出され,ランプで手を焼か れるという暴力を受けた。
 仏教徒団体は,第二次世界大戦後に韓国がキリスト教徒が多数を占める国になったように,キリスト教団体が自由に活動すればスリランカでもキリスト教徒が多数派になるだろうと主張した。そしてこうした主張は JVP や 後述の JHU によって政治化されていった。
 ガンゴダウィラ・ソーマ師の存在とその突然の死は,2003 年から 2004 年にかけてのキリスト教徒攻撃増加の原因の一つとなった。ソーマ師は呪術や神々を否定し,純粋な仏教を説く僧として知られる。彼は民族的,あるいは宗教的な対立を煽るような発言も行った。ムスリムは産児制限をしないため,2025 年までにはシンハラ人仏教徒はマイノリティになってしまうとも発言した。ソーマ師が旅行先のロシア・サンクトペテルブルクで突然死し多くの憶測が飛び交った。そのうちの一つがキリスト教福音主義勢力による謀殺というものであった。民族的,宗教的な排他意識は高まり,キリスト教徒への暴 行や脅迫などの人権侵害は急増した。キリスト教徒への攻撃は,2000 年には 14 件であったが,2003 年と 2004 年には 146 件になったという報告がある。
 キリスト教への攻撃は 2008 年になっても続いていた。たとえば 2008 年 3 月 には,ゴール県のある牧師の家を 200 人の群衆が取り囲み,牧師に対して死の 脅迫を与えた後に教会施設に放火する事件があった。この年の 2 月にも東部の アンパラにある House Church Foundation という教団の牧師が二人の男に射殺 された。この牧師は約 6 ヶ月にわたって脅迫電話を受けていたという 。
 2004 年以降,キリスト教団体,特に新しい宗派による活発な活動のなかでいくつかの反改宗法案が提出された。JHU は 2005 年 3 月に再び「強制改宗禁止法案」という同じ名の法案を提出
した。しか し,2005 年 11 月にマヒンダ・ラージャパクサが新しく大統領になると,あらゆる法案は審議停止とされ,それにともないこの反改宗法案も廃案となったが、2002 年から続いていた LTTE との和平交渉スリランカを分裂させるものとして多くのシンハラ人たちに不安を与え外国のキリスト教団体の活動によってスリランカの仏教が危機にあるという不安を拡大し,排他的な感情を強化したとの指摘もある。軍事的解決を後押しすることにつながった。

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