巡礼の道

パキスタンとインドが合意し、インドで暮らすシク教徒にパキスタン国内の聖地巡礼を認める特別な入国制度が2019年11月9日に始まった。国境に近いインド北部デラババナナクからシク教徒数百人がパキスタン側に入り、国境から約4キロ離れた16世紀のシク教開祖ナーナクが没したとされるパキスタン北東部カルタルプールへバスで移動した。
 開祖の生誕550年の節目に合わせて、パキスタン側の寺院を訪問できるよう両国にまたがる形で巡礼路の建設が進められ、10月、シク教徒のビザなしでの巡礼を認めることなどで合意した。パキスタン側で9日行われた開通式には、パキスタンのカーン首相やシク教徒のインドのシン前首相が出席した。インド側から訪れたシク教徒が、巡礼路を通ってパキスタン側の寺院を初めて訪問した。巡礼先の寺院は、インドとの国境からおよそ4キロ離れたパキスタン中部のパンジャブ州にある。巡礼者は毎日、日帰りで訪れることができるようになった。
 ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間をシク教徒が取り持つという形ともいえる。インドのシン前首相は「シク教徒のコミュニティーにとってきょうは歴史的な瞬間。巡礼路の開通はインドとパキスタンの関係改善に向けて役に立つだろう」と述べた。モディ首相は「インド国民の心情を尊重してくれた」とパキスタンのカーン首相に謝意を表明した。カーン首相はカルタルプールでシク教徒を迎えた。 シク教は、インドの北西部,パンジャブ地方に興ったヒンドゥー教とイスラムを批判的に統合した宗教とされている。シクsikkhとは〈弟子〉に由来し、開祖で初代グル(師)ナーナクNanak〔1469-1538〕が、唯一永遠の神を強調し、偶像崇拝を排した。カーストの差別も否定している。ナーナク以降、10人のグルが出ているが、第5代アルジュン・シン〔1563-1606〕は根本聖典《グラント・サーヒブ》を編集しアムリトサルに黄金寺院を建立した中興の祖として知られる。アルジュン・シンはイスラム教のムガル帝国の弾圧により死亡し、シク教団の反イスラム色が強まった。第10代グルのゴビンド・シンが軍事的宗教団体カールサーを組織してムガル朝と戦った。19世紀のシク王国はイギリスの植民地支配に抵抗してシク戦争を起こした。
 1947年のインド・パキスタン分離独立時にはシク教徒はインド帰属を選んだ。その後パンジャブ語州の創設や自治権を求めてパンジャブ問題に発展した。シク教徒の政党としてはアカリ・ダルが知られている。
 儀式、偶像崇拝、苦行、ヨガ、カースト、出家、迷信を否定し、世俗の職業に就いて真摯に励むことを重んじる。戒律は開祖の時はなかったが、第10代グルのゴビンド・シンがタバコやアルコールを禁じた。肉食は本人の自由に任されている。総本山はインドのパンジャブ州のアムリトサルあるハリマンディル(ゴールデン・テンプル、黄金寺院)。世界で5番目に信者の多い宗教で、約2400万人の信者がいとされている。印僑として欧米諸国や東南アジアで暮らすシク教徒が多い。ヒンドゥー教が生来から帰依するものであるのに対して、シク教は改宗宗教であることから、異教徒やインド人以外に対しても布教が行われる。アメリカのIT技術者にも教徒が多い。
 ムガル帝国時代に武器を持って戦っていたた。技術系に強い者が多く、インドのタクシー運転手にはシク教徒が多い。男性はシン(ライオン)、女性はカウル(王女)という名前を持つ。国民会議派の支持者も多い。シク教寺院に入るには靴を脱いで頭の上にハンカチをのせて髪の毛を隠さなければならない。シク教寺院は兵庫県神戸市中央区野崎通にある。
 マンモハン・シンのほか、イギリスの女優パーミンダ・ナーグラ、演歌歌手のチャダ、プロレスラーのタイガー・ジェット・シンも有名。
 1947年のインド・パキスタン分離独立に際し、シク教団はインド帰属を選択した。パンジャブ州のパキスタン領部分のからのシク教徒の追放を招き、ヒンドゥー教徒とともに多数のシク教徒が難民となってインドへと流入した。シク教国の都であったラホールはパキスタンに属することになった。フライング・シクとパキスタンに絶賛された陸上選手のミルカ・シンは、分離独立の混乱の中で父親を失い、インドで避難民生活を送った。その経緯は映画にもなっている。 ###

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