聖地判決
インドの最高裁は政治判断をすることで知られる。生体認証データを集めたIDシステムのアダールについてもプライバシー権が憲法で保障される権利だと踏み込んだ判断をしている。インド北部アヨーディヤのモスク跡地の所有権を巡り多数派ヒンズー教徒と少数派イスラム教徒が争っていた訴訟で、最高裁は2019年11月9日、モスク跡地でヒンドゥー教寺院建設を進め、イスラム教徒側には代わりの土地を与えるよう政府に命じた。モディ首相は「勝ち負け」と見なされるべきではないとツイッターで述べたが、安定した政治基盤を背景にヒンドゥー至上主義の傾向を強めている証だいう言説が増えるのだろう。
イスラム教徒の反発を懸念した政府は判決前、治安部隊4000人以上を現地に派遣し、両者の衝突を警戒した。店と大学は月曜日まで閉鎖された。政府は、モスクの破壊の画像の公開を禁止。ソーシャルメディアのプラットフォームは炎上のコンテンツがないか監視され、警察は不適切なツイートの削除を求めた。
インド考古学調査(ASI)の報告が、「イスラム教ではない」建物の残骸が、破壊されたモスクの構造の下にあるという証拠を提供。裁判所は、提示されたすべての証拠を考慮すると、論争中の土地はラーマ寺院のためにヒンドゥー教徒に与えられるべきと決定、連邦政府に、神殿の建設を管理および監督するための信託を設立するよう指示した。ただしモスクの解体には法的根拠はないとしている。
ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立の根は深い。インドという国やインド人のアイデンティティに関わる。そのことを示したのが、アヨーディヤ大暴動だった。舞台となったのは、そのウッタルプラデシュ州の町アヨーディヤのモスクだ。アヨーディヤは、ヒンドゥー教の七つの聖地のひとつで、ヒンドゥー教徒にとっては非常に重要なラーマ王子生誕地とされる。インドの大叙事詩『ラーマーヤナ』では、ヒンドゥー教のヴィシュヌ神の第七の化身であるラーマ王子がアヨーディヤの王の長男として生れ,魔王に奪われた妻シータを戦いの末に取戻し、アヨーディヤの王位につく。ラーマ王子夫妻の波瀾万丈の生涯は、王族クシャトリヤの理想像として、民衆の熱狂的尊敬を集めている。
そのアヨーディヤでは、十六世紀のムガル帝国がモスクを建設する際に、ヒンドゥー寺院を破壊したとされている。一九四九年には、ヒンドゥー教徒の活動家がモスク内にラーマの神像を設置したことにイスラム教徒が反発し、二つの宗教の紛争が続いてきた。一九九二年には、約二〇万人のヒンドゥー教徒が全国から集まり、モスクを破壊し始めた。暴動はインド各地に拡大し、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の衝突などで死者の数は二千人を数えた。
一九九二年というと、ITが注目され始め、インド経済が改革に向かって前進しているというような時期だ。そんな時期に十六世紀から続く宗教紛争が激化し、多数の死傷者を出すという、とても同じ国で起きていることとは思えない光景が広がった。そしてこの時期、ヒンドゥー・ナショナリズムを追い風にして、インド人民党は党勢を拡大し、一九九八年から六年間の政権を担った。
インドの二つの宗教の緊張関係は外国から見れば対岸の火事に見えたかもしれないが、他人事ではなくなったのは、一九九八年のことだ。インドと、それに続いてパキスタンが核実験を強行した。インドがラジャスタン州のポカランの砂漠で核実験を実施すると、これに対抗する形でパキスタンがその二週間後にバロチスタン州のチャガイの山岳地帯で、核実験を実行した。過去三度にわたり戦火を交えていた印パの実験は、国際社会に大きな衝撃を与えた。
最初に核実験に踏み切ったのは、強いインドを標ぼうしていたインド人民党のバジパイ首相だった。安全保障政策について強硬な態度をとるバジパイ政権は、パキスタンが行った弾道ミサイルの発射実験にいら立っていた。それが核実験につながったとされている。問題はインド国内の宗教対立や南アジアの地域紛争という範疇のものではなくなり、核戦争の脅威という世界の問題になった。
ヒンドゥー教とイスラム教、インドとパキスタンの対立は今も続いている。常に緊張の最前線にあるのがカシミール地方だ。「イスラム教徒の」自治権のはく奪は記憶に新しい。