インドの政治は危機とともに変化してきた、多いのは地震そして感染症

1905年カングラ地震では2万人以上が犠牲になった。カングラバレーとヒマチャルプラデシュ州のカングラ地域で発生した。インドの紅茶はダージリンが有名。西ベンガル州はベンガル湾から北の高地まで伸びていて紅茶の名産地となっている。東インド会社は茶の栽培を進めアッサムの茶がカルカッタに送られた。カングラは、ダージリンと同じようにヒマラヤの裾野にあるインドで最も古いお茶の産地のひとつ。カングラでの地震を受けて茶園を経営していたイギリス人が本国に帰国。茶園としての知名度はダージリンに譲ることになった。アフガニスタンへの緑茶が主な市場となった。山岳地帯は地震の多発地帯でもある。
 1905年といえばベンガル分割令の年。ベンガル州が東ベンガル及びアッサムと、西ベンガルの2つに分割された。1911年に東西ベンガルは再統一され、さらにビハール州オリッサ州が新設された。ベンガル分割例は1905年インド総督カーゾンが公表したベンガル地方をヒンドゥー教徒が多い州とムスリムが多い州に分割した評判の悪い政策。独立運動を分裂しようという政治的意図があった。宗教の違いを用いて反目を助長した植民地支配のいろは。帝国主義的政策。ここから国民会議派の抵抗運動が生まれ、スワデーシー(国産品愛用),スワラージ(自治)を掲げる民族運動が高揚した。
 1934年ビハール地震は、1月15日午後2時13分(現地時間)、インドとの国境に近いネパール東部で発生したマグニチュード8.1の地震。震源はヒマラヤ山脈の山腹。堆積盆地のガンジス川流域で地震動が増幅された。死者・行方不明者は約10,500人とされているが正確なところはわからない。
ビハール州では35mの仏塔が崩れて6mになったと伝えられている。人々が建物の下敷きとなって死亡した。
 被災地にはマハトマ・ガンディーが訪問している。ビハール地震は、インドが手に負えないものを根絶することができていないものだと指摘している。どうしようもない運命y自然の力の一方で、「国」としての意識が感じられる。
 1956年アンジャール地震。周期的に大規模地震に見舞われているカッチのアンジャール。現地を取材した。7月21日の地震の震源地はアンジャールとバドレサーの間で1819年のカッチ地震の震源地に非常に近い。被害範囲は2000 km2。知覚半径は300 km。日本の半分を覆う広さ。25の村の3,000戸以上の家で巨大な亀裂が発生した。
 この時代は、初代首相のネルーの時代(1947-1964)。グジャラートはまだまだ地方の州。ほとんど何もしてくれなかったというインド人民党の不満が改めて報じられている。地方の時代が来るのも、インド人民党の全国化が広がるのもまだまだ先のこと。
 1993年マハラシュトラ地震。1993年9月30日にグジャラート州に隣接するマハラシュトラ州サスプールを中心としてM6.4の地震が発生し約3万人が死亡。掘り出された遺体は伝染病を防ぐため次々と火葬された。
 経済改革以降の時代。国民会議派ラオ政権(91-96)からインド人民党の第一期バジパイ政権へ動きだす。地方の政治の黎明期。二大政党制への萌芽が見られる時期でもある。 
 2001年グジャラート地震。インド西部地震ともいう。2001年1月26日にインド西部グジャラート州カッチ県で発生。内陸地殻内地震。モーメントマグニチュード7.7。震源の深さは約16km。死者2万人、負傷者数16万。
 災害において他国からの支援を求めないインド。このときは復興を急ぎ各国から支援を積極的に要請。違法建設も増えた。この経験もありインドは2004年のインド洋大津波では支援を基本的に拒否し自助を貫いた。
 この災害がモディ首相の指導力政治の原型を作ったことは著書「インドが変える世界地図 モディの衝撃」で詳述した。

 2004年インド洋大津波。2004年12月26日、インドネシア西部時間7時58分53秒(UTC0時58分)にスマトラ島北西沖のインド洋で発生したマグニチュード9.1の地震。震源は北緯3.3度、東経96.0度。死者・行方不明者はインドネシア(約17万人)、スリランカ(約4万人)、インド(約2万人)、タイ(約1万人)。日本人の犠牲者は40人。
 インド洋に津波警報システムを構築する国際協力プロジェクトが2005年に開始。2011年10月に津波警報システムの運用が始まった。太平洋に大きく遅れた。著書で詳述した。
 核実験の第二期バジパイ政権(1998年ー2004年5月)終了の直後。シン政権の立ち上がりを襲った。貧困(不満)の速度が成長の速度を上回り、途上国型の政権交代。シン政権は、援助を受け入れない原則をほぼ踏襲。外交的自立を守った。
 2005年カシミール地震。パキスタン地震ともいう。現地ではバスを借り上げ寝泊りした。10月8日08時50分、日本時間午後0時50分にパキスタン北東部とインド北部に跨るカシミール地方で発生した地震。マグニチュード7.6。死者7万人超。震央のあるカシミール地方はパキスタンとインドの係争地。印パ戦争の停戦ラインのパキスタン側でパキスタンが実効支配している地域。
 山岳地帯の被災ではイスラム教徒の互助組織が無政府状態の中で民間警察の親分となった。被災の中心地アボタバードにはオサマビンラディンが隠れ住んだ。

 2011年シッキム地震。インド北東部地震ともいう。2011年9月18日現地時間18時10分。モーメントマグニチュード(Mw)6.9。震源はインドのシッキム州とネパールの国境付近。シッキム州だけで10万戸以上の家屋が損壊。道路が寸断され、強雨、地滑りで救助活動は難航。
 2011年は国民会議派政権の後半。指導力を発揮できず。山岳地地帯の多いインドで規模は大きくても死者は少ないこともある。一方で、救助の手が届かず助けられる人を助けられない。

 2015年インド/ネパール地震。2015年4月のネパールで最悪の自然災害。インドのビハール州、ウッタルプラデシュ州、ニューデリーでも被害。
 外交への影響も大きかった地震。民主制への移行の過程。ネパールは受援力のない国に。中国とインドの綱引きの場になる。インドの政治は大規模災害など危機とともに変化してきた。
 感染症についてはまた次の機会にまとめたい。

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