ゴーンとインド

 ゴーン氏が拘置所から乗った自動車は、日産の車のものではなく、スズキの軽自動車「エブリイ」だった。 役員報酬の過少記載の疑いで逮捕された日産自動車の前会長カルロス・ゴーン容疑者(64)が二〇一九年三月、保釈が認められ拘置所から出所した。二百人以上の報道関係者を驚かせたのは、ゴーン氏のいでたち。捜査員のような姿で建物内から出て、変装をしているかのようだった。

(ダットサン)
 ゴーン氏のインド自動車市場への貢献は、日産のダットサンを投入したことだ。二〇一二年三月、ゴーン氏は、新興市場向けの低価格ブランドとしてダットサンの復活を発表した。「ダットサン・GO」は最初に発表された車種である。GO(ゴー)は、日産自動車が製造し、ダットサンブランドで販売しているAセグメントの自動車である。ダットサンは、高度成長期の日本の乗用車。「脱兎(ダット)」のように走るという意味が込められている。GOは、悪路でも走れるようにインド仕様にした。インドではスマートフォンが普及していたため、車両とスマホを接続できる「モバイルドッキングステーション」を装備した。
 ダットサンの成功を見て、二〇一四年、ルノーは、新型車の『KWID』をインドで発表した。インドで開催のデリーモーターショーで新型車のコンセプトを発表し、インドの悪路に対応できるものとして、最低地上高が180mmを確保するデザインを採用した。全長3680ミリの小型車ではあったが、モダンな室内で五名が乗車してもゆったりできるスペースを確保した。
 ルノーの新興市場参入を見て今度はフランス勢が動き出す。二〇一七年には、プジョーやシトロエンブランドを擁するPSAグループがインド市場に再参入した。PSAグループは一九九〇年代前半にインド市場に参入したものの、合弁相手との対立などから、一九九七年に撤退していたが、インド財閥、CKビルラグループと合弁会社設立で合意。難しいインド市場にあらためて参戦しようというものだった。PSAグループとCKビルラグループは、インドのタミルナドゥ州に車両などの組立工場の建設を発表した。
 もともと、ルノーと日産の連合は、日産の経営危機をフランスが救ったものだが、ゴーン氏の改革で日産の経営が上向いてくると、フランスの介入の度合いが強まる。二〇一五年にはフランス政府が、ルノー保有株を二十パーセントまで増やした。経済長官だったエマニュエル・マクロン氏は、フランスでの生産増加と雇用の確保に努めた。これに反対したのが、カルロス・ゴーン会長で、政府の介入を排除し、企業としての自立性を保とうとした。その結果、 二〇一七年八月には、ルノー日産連合は、日本トヨタ、独フォルクスワーゲンを抜いて世界の販売台数でトップ(508万台)に躍り出た。世界の二十一か国に生産拠点を置き、消費市場での生産体制が功を奏した。


 一方で、難しいのが、やはりインドの労働問題だ。
 軒並み、海外の自動車メーカーはインドの労働問題に手を焼いている。
 ルノーが経営不振に陥ったのも、二〇〇九年の世界金融危機の際に、解職された労働者への追加年金支給を求め、組立工場爆破の脅迫まで行ったフランス特有の強硬な労組がある。フランス政府は公的資金を投じて懐柔策に出たが、ルノーと日産は新規生産ラインを海外に移転することになった。進出先でもその苦労は続く。
 もう一つインドの難しいところは、ローカル市場に入りこむことだ。
 ゴーン氏は、インドの自動車販売店の選定で、友人や知人を優遇する契約を日産に結ばせていたとの疑惑も報じられた。日産は投資資金や経費の不正支出など会社の「私物化」にあたる不正に加え、事業運営にかかわるゴーン前会長の「公私混同」も問題視して調査を続けていた。インド事業の強化に向けて二〇〇八年に現地の販売代理店を選定した際、日産はゴーン前会長の強い推薦でフーバー社と独占代理店契約を結んだ。フーバー社の実質的な所有者は、ゴーン氏の長女の親友の父親で、長女と同じ学校に通っていた親友を通じて父親と家族ぐるみの親交があったという。業績不振に陥ったフーバー社の日産による買収も検討していたという。日産は契約から6年後の14年にフーバー社との契約を解除した。フーバー社は突然の契約打ち切りを不服として日産を提訴し、日産は損害賠償金を支払った。
 労働者の問題と、ローカルな販売市場。いずれもなんとか乗り切ってきたのが、インド進出の成功例となっているスズキなのだろう。

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ゴーンとインド” に対して1件のコメントがあります。

  1. 管理者 より:

    なるほど、そうだったんですね。

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