黒人フロイド事件で銅像が攻撃されるチャーチル、インド人嫌悪でベンガル飢饉が説明できるのか

 チャーチルのインド人嫌悪が飢饉の原因になったと2010年に研究書がでて話題となった。アメリカから帰国しがチャーチルはロンドンの首相官邸前でトレードマークの勝利のVサインを見せたが、どうだったのか。第2次世界大戦中のインド人に対する人種的嫌悪感から、飢饉にあえぐインドへの援助を拒み数百万人を餓死に追いやったという。
 日本軍がインドへのコメの主要輸出国だった隣国ビルマを占領後、イギリス人が支配する植民地総督府は、兵士や軍需労働者にしか備蓄食糧を提供しなかった。コメ価格は高騰し、日本軍の手に渡ることを恐れた総督府は輸送船や牛車を押収したり破壊した。1943年のベンガル飢饉は人為的にもたらされたものだったという。当時、オーストラリアからインド経由で地中海地域へ向かう航路の船は輸出用のコメを満載していたがチャーチルが緊急食糧支援の要請を拒否し続けたベンガル飢饉では300万人が餓死した。インド人作家マドゥシュリー・ムカージー(Madhusree Mukerjee)の『Churchill’s Secret War』。第2次大戦の英政府の閣議記録や埋もれていた官庁記録、個人的なアーカイブから、飢饉の直接的な責任はチャーチルにあることを示す証拠だと主張した。ベンガル飢饉は総督府下で仕事に就いていた人々の罪の意識がからインドの歴史からも消去。ムカージー氏は、インド奥地の村々のベンガル飢饉の生存者を取材した。
 チャーチルはインド人を蔑む言葉をよく口にしたとされる。チャーチル内閣のレオ・アメリー(Leo Amery)インド担当相に対して「インド人は嫌いだ。野蛮な地域に住む汚らわしい人間たちだ」。飢饉はインド人自らが引き起こしたもので「ウサギのように繁殖するからだ」。マハトマ・ガンディーについて「半裸の聖者を気取った弁護士」。

 アメリカではイギリス奴隷商人の銅像が抗議者たちに引きずりおろし海へ投棄された。2020年6月7日、反人種差別デモの参加者たちが17世紀の奴隷商人エドワード・コルストンの銅像をブリストル湾に放り込んだ。エドワード・コルストンの船はアフリカやアメリカ大陸から約8万人を運びコルストン故郷の町、南西部ブリストルで富をもたらした人物としてたたえられてきた。
 スコットランドの中心都市エディンバラにある初代メルヴィル子爵のヘンリー・ダンダスの像は奴隷制度廃止を遅らせたとして攻撃を受けた。「ジョージ・フロイド」「BLM」とスプレーの文字。ダンダスは奴隷制度を1792年に廃止したはずの法案に修正案を提出。奴隷制度は、15年も長く続くこととなった。
 ベルギー・アントワープのレオポルド2世の像は放火され赤いペンキを塗られた。在位最長の王レオポルド2世は1865年から1909年までベルギーを統治。当時コンゴ自由国として知られていたコンゴを自分の私的植民地とし強制労働所によるゴム貿易で財を成した。
 ロンドンのパーラメント・スクエアのウィンストン・チャーチル像は「人種差別主義者だった」とスプレーで落書きされたl「感動的な政治家で、作家で、雄弁な語り手で、指導者」。2002年にBBCが行った「最も偉大なイギリス人」の世論調査で1位。ノーベル文学賞も受賞している。チャーチルが人種差別主義者だったとの指摘は多い。チャーチルはヴィクトリア朝時代に生まれ育った。人間の属性による優劣を信じていたのか。
 マラカンド野戦軍。チャーチルは若いころ,インドやアフリカなどで戦った。その時の記録の一つがインド北西部でのパシュトゥン族との戦いを描いた『マラカンド野戦軍』。
 カイバル・パクトゥンクワ州は911の際に取材した。州都はペシャワール。東を西が交錯する世界の中心にはラディンも滞在した。カイバル峠もある。昔は北西辺境州と呼ばれた。2018年、隣接する連邦直轄部族地域を編入。アフガニスタンとの国境を接する。国境線のデュアランド・ライン周辺やペシャワールと近接するワジリスタンは紛争で情勢が不安定。

 チャーチルはガンディーをなぜ嫌ったのか。第二次大戦中の1942年からガンディーが指導したインド国民会議派の反英闘争。1942年8月、インド国民会議派のガンディー、ネルーらが開始した「クィット・インディア」「インドを出て行け」。1939年、第二次世界大戦が始まり、イギリスはドイツに宣戦布告すると植民地インドに対して自動的に戦争状態にあると宣言。インド国民会議派はドイツのファシズムと戦う必要は認めたがインドの独立を認めるべきであると主張。太平洋戦争開戦前の1941年8月にチャーチル首相がローズヴェルト大統領と合意した大西洋憲章「すべての人民が、彼らがそのもとで生活する政体を選択する権利を尊重する。両国は、主権および自治を強奪された者にそれらが回復されることを希望する」。チャーチルはインドには適用されないと表明し、インドに独立の約束を与えることを拒んだ。

 1942年2月に日本軍がイギリスの拠点シンガポール占領し、さらに5月にはビルマを占領、インドに迫りインド民衆に大きな衝撃を与えた。ビルマ占領で中国支援ルートがなくなり、アメリカのF=ローズヴェルト大統領と中国の蒋介石はチャーチル首相にインドに戦争に協力させるため独立を認めるよう迫った。
 イギリス連邦内の自治国となる案はインド側が拒否し、反英闘争でのガンディーの指導力が再び強まった。ガンディーは42年8月8日「行動か死か」と演説し、「インドを立ち去れ」運動を宣言。イギリスは翌日朝、ガンディー、ネルー、アーザードなど指導部を反戦活動扇動で逮捕し反戦暴動が拡大した。1944年2月からの日本軍のインド侵攻作戦インパール作戦の失敗でガンディーは「インドを立ち去れ」運動の終結を宣言。

 「ガンディーとチャーチル」(アーサー・ハーマン著、田中洋二郎監訳、守田道夫訳、白水社)は、ガンディーとチャーチルの格闘を描いた。2人があったのは一度だけ。1906年、ロンドンの植民地省。ガンディーは英領南アフリカで弁護士をしインド系住民の権利擁護運動をしていた。チャーチルは植民地省次官。ガンディーは南アフリカでの人種差別的な法律成立を防ぐためイギリスの介入を陳情しチャーチルは前向きの言質を与えた。(英国は介入せず法律は成立)

 サー・ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチルは1896年冬に第4女王所有軽騎兵連隊とともにイギリス領インド帝国に転勤となった。インド駐留のイギリス軍将校は王侯のように暮らしで日常生活をインド人召使に任せた。アリストテレスの『政治学』、プラトンの『共和国』、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』、マルサスの『人口論』、ダーウィンの『種の起源』、マコーリーの『イングランド史(英語版)』などの読書生活でインド勤務時代に唯一参加した実戦が1897年夏にインド西北の国境付近(現在はパキスタン)で発生したパシュトゥン人の反乱の鎮圧戦。チャーチルはマラカンド野戦軍に入隊を希望し新聞の特派員、戦闘にも参加した。体験談が処女作『マラカンド野戦軍物語』。作品の評判が良かった。1899年、第二次ボーア戦争時にも従軍記者をした。1899年10月に第2次ボーア戦争が勃発。チャーチルは再び『モーニング・ポスト』紙の特派員となり民間ジャーナリストとして戦地に赴いた。帰国後ボーア戦争に関する『ロンドンからレディスミスへ』と『ハミルトン将軍の行進』の2作を著した。
 インド自治に反対したチャーチル。第一次世界大戦中にロイド・ジョージ内閣はインド人から積極的な戦争協力を得るために、戦後のインド自治を約束していた。インド総督アーウィン卿(後のハリファックス卿)は、1929年にロンドンの円卓会議にインド人代表団が参加できると宣言。首相マクドナルドや保守党党首ボールドウィンはアーウィン卿の宣言を支持したが、熱心な帝国主義者であるチャーチルが反対。インド人には自治は尚早。インドの支配層はインドの民を代表していない。大英帝国の繁栄の根源に自治を与えられない。一度でもインド・ナショナリズムに譲歩したら独立まで止まらない。
 アーウィン卿の宣言に歩み寄らないガンディーは1930年5月に投獄。チャーチルはガンディーの交渉に応じるアーウィン卿を批判。1931年1月にボールドウィンが「インド政治指導層の支持を得たインド政策ならば支持する」と宣言しチャーチルは「影の内閣」から離脱した。1933年3月17日にマクドナルド挙国一致内閣が後のインド統治法の叩き台となる白書を発表。各州自治権、連邦政府、総督権限一部移譲、立法議会設置。チャーチルは白書に反対し、1933年4月には自らを副総裁としたインド防衛連盟を結成。その創設大会でチャーチルは「ガンディー主義の粉砕」を訴える演説を行った。1935年6月5日の庶民院の採決でチャーチルは敗北しインド統治法が可決された。
 1941年8月、戦艦プリンス・オブ・ウェールズ上のチャーチルとアメリカ大統領ルーズベルトが「大西洋憲章」を締結した。第一次世界大戦時にウィルソン14カ条を真似たもので領土不拡大や民族自決を盛り込む。後に国際連合憲章の原型になった米英の共同文書。チャーチルはこの憲章の適用範囲はドイツ支配下のヨーロッパ諸国のみで、大英帝国が広がるアジアやアフリカは除外されるべきと主張した。アメリカは大英帝国の破壊を目論み拒否。「インド退去運動」のイギリス当局の弾圧でガンディーらが逮捕・投獄されるとアメリカは「インドに大西洋憲章を適用せよ」と圧力をかけたがチャーチルは拒否。アメリカはイギリスのインド支配破壊を画策し続けた。
 ガンディーを嫌ったチャーチル。「アジアによくいる托鉢に成り済ました英国法学院卒業の扇動家ガンジー弁護士が、半裸姿で陛下の名代たるインド総督と対等交渉している。このような光景を許していればインドの不安定と白人の危機を招く」
 ガンディーの像もチャーチルの像も攻撃されるレイシストという言葉のあいまいさ。

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