なぜ香港の問題がインドと関係するのか?【薬にも毒にもなるアヘンの負の遺産】

香港といえば元々イギリスの植民地、なぜ同じ植民地でもインドは別の道をたどったのか。それとも同じ道をたどるのか。中国への窓口として使い捨てにされた植民地は毒にも薬にもなる民主主義という麻薬の使い方をまだ知らない。

 沢木耕太郎の『深夜特急』はインドのデリーからロンドンをめざすユーラシア大陸の旅。デリーの前にストップオーバーで香港に立ち寄る。本当に訳のわからないまま、九龍にある連れ込み宿風のホテルに長期滞在する。
 沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)より以下。
 『香港は本当に毎日が祭りのように楽しかった。無数の人が狭いところに集まって押しくらまんじゅうをしているような熱気がこもっていた。その熱気に私もあおられ、昂揚した気分で日々を送ることができた。食堂や屋台の食べ物はおいしいし、なによりも安い。わずか何分か乗るだけのフェリーが素晴らしいクルージングのように思えた。しかも、筆談によって、あるていど互いの気持ちが通じ合える。自分で旅の仕方を発見し、楽しむことができれば、無限の可能性のあるところだった。
 のちになって理解することになるのだが、香港から東南アジアを経てインドに入っていくというのは、異国というものに順応していくのに理想的なルートだったかもしれない。…』
 香港の繁栄、昂揚感が伝わる。インドへと続く。

 香港もインドももともとイギリス領。
 香港の重慶大厦(チョンキン・マンション)はリトルインディアとして知られる。安く、インド人が多い。インド食材やインド料理店の数も多い。ホテルの経営者もインド人。

 ウォン・カーウァイ監督の『恋する惑星』(原題:『重慶森林』)で、金城武が潜入した雑居ビル。在外インド人省(Ministry of Overseas Indian Affairs)によると2012年5月の統計で全世界の印僑の数は約2191万人。インド以外のインド人は、NRI (Non-Resident Indians)と、現地の国民となっているPIO (Person of Indian Origin)の合計。華僑は約5000万人。
 中国本土のインド人は約1万5千人。日本は2万2千5百人。香港には中国本土より多い3万7千人以上のインド人がいる。

 香港で国家安全法施行された。2020年6月30日、中国の全人代常務委員会が香港の治安維持法案である国家安全法案を全会一致で可決し習近平国家主席が署名し即時発効した。香港基本法の付属文書に追加することになった。2020年7月1日は、香港がイギリスから中国に返還された23年目の記念日。中国政府の強い意思がにじみ出た。記念式典で、林鄭月娥(キャリー・ラム)香港行政長官は中国の主権と領土保全、安全を守るためのメカニズムが改善され歴史的な一歩とした。一国二制度が変容した。
 国家分裂罪、国家政権転覆罪、テロ活動罪、外国勢力との結託を通じた国家安全危害罪が規定され、最高刑は無期懲役。デモを封じ込めるため政権転覆罪には香港にある行政機関のオフィスへの攻撃が含まれる。テロ活動罪は交通網への重大な破壊行為を含む。記念式典の行われた香港島中心部では千人規模で人々が抗議のシュプレヒコールを上げた。警官隊との間で小競り合いが起き警察は300人あまりを逮捕した。
 中国の力の過信、トランプの人権への無関心、集会を開きにくいコロナ禍という三重苦の中で民衆の運動は失速した。主なメンバーが活動を停止し国外に逃亡。在外の中国人の活動も脅かされる。香港がいったん負けたように見せたのはこのタイミングをはかっていたのだろうか。

 そもそも香港はイギリスの植民地だった。鄧小平が経済発展の窓口として欲しがったためにサッチャーと玉虫色の合意をした。返還するのに変換しない。そのタイムラインの中を生きたのは現地の住民。とまどいがあるのは当然だ。そこに民主主義や人権の御旗が活動を過激にしていく。
 香港が「特別行政区」という地位を与えられたのは、大英帝国と中華人民共和国という大国が決めたこと。中国が清の時代、香港島は小さな漁村だった。イギリスの商人がインドからアヘンを持ち込み、清の茶葉や絹、陶器などと交換した。1839年には1000万人がアヘンを常用し、200万人が中毒になっていた。
 イギリスの商人を追放したことから第1次アヘン戦争が勃発し、イギリス軍に520人、清に2万人の犠牲者が出た。負けた清はイギリスとの南京条約で香港島を永久にイギリスを割譲した。以後56年の間に香港島、九龍半島、新界という香港の主要な3地域が全てイギリスの支配下に置かれることとなる。イギリス、フランス、清の間での第2次アヘン戦争後の北京条約の締結で九龍半島と昂船洲がイギリスへ割譲された。香港は貿易地として栄え、1941年~1945年は日本が香港を占領した。
 戦後、香港は国際金融の中心地として「アジアの虎」と呼ばれるようになった。鄧小平は「改革開放」政策の発展の窓口として香港に注目。99年間の新界租借期間満了を前にイギリスは、租借の継続を鄧小平へ打診。
 1984年、マーガレット・サッチャー首相と中国の趙紫陽首相が香港の将来に関する中英共同声明に署名し、1997年7月1日をもって香港は中国に返還されると宣言した。中国は、香港に「高度な自治」権を与えることを約束し、香港は2007年までに直接選挙に移行するとした。1997年7月1日、香港は正式に中国へ返還され、150年以上に及ぶイギリス支配が終わった。
 2019年2~3月、香港政府は、中国本土への容疑者引き渡しを可能にする初の条例改正案を発表した。香港の自治権が脅かされると数百万人が平和的なデモ行進に参加した。デモ隊は、逃亡犯条例改正案の撤廃、警官による暴行の捜査、抗議活動を「暴動」と見なさないこと、逮捕された活動家の釈放を求め、香港政府が引き下がったかに見えた。

 アヘンはケシから得られる麻薬。イギリスはインド産のアヘンを中国に密輸出し巨利を得、反発した清朝がアヘン密輸を禁止したためアヘン戦争が起こった。
 アヘンは吸飲すると気分が高揚するなどの薬効があったが、習慣化して次第に人体に害を及ぼし廃人としてしまう。1780年、イギリス東インド会社がベンガル地方のアヘン専売権を獲得、本格的な中国への輸出に乗り出した。清朝政府はアヘン輸入を禁止し、密貿易という形で広州に運ばれ、次第に巨大な利益を上げるに至った。19世紀に中国で急速にアヘン密貿易が増大し、中毒者が蔓延、また代価としての銀が流出したため、清朝政府も無視できなくなり、ついに1840年のアヘン戦争勃発となる。
 ソフトボール大の球状に固められてマンゴ材の箱に詰められて輸出された。ベンガル産が最高級で公班土(イギリス東インド会社)と言われた。

 ジャーディン・マセソンは、香港に本社を置くイギリス系企業グループの持株会社。創設から170年たった今日もアジアを基盤に世界最大級の国際コングロマリット(複合企業)として影響力を持つ。前身は東インド会社。1832年、スコットランド出身のイギリス東インド会社元船医で貿易商人のウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンが中国の広州(沙面島)に設立した。当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出。香港上海銀行(HSBC)は、ジャーディン・マセソンなどが香港で稼いだ資金をイギリス本国に送金するために設立された銀行。香港が中国に返還されるまでは、イギリス植民地資本であるジャーディン・マセソンの役員や幹部らがイギリス植民地下の香港行政局(現在の行政会議 )の非官守(官職)議員として参加し、香港政庁の政策に影響力を行使していた。マンダリン・オリエンタルホテル等の経営で知られる。

 産業革命で大量生産を行うための原料を必要としたイギリスはインドを原料を生産するだけの植民地とした。イギリスの工業製織物が流れ込みインドの伝統的な綿織物は壊滅しインドは貧困国となる。イギリスは中国から茶、絹、陶磁器を輸入するため銀がイギリスから中国へ大量に支払われた。この銀はインドのアヘンを売ることで得られた。三角貿易。HSBCはイギリスが本社だが本店は香港。香港の通貨である『香港ドル』を発行する。イギリスがHSBCを設立した背景にはアヘン戦争があるといわれる。

反中というコンテクストでチベット人は香港への連帯示す。 2019年8月30日には、インド在住のチベット人らが中国に対する抗議デモを実施し香港への連帯を示している。「香港解放」「中国は恥を知れ」「チベットは香港と共にある」とシュプレヒコールを上げた。「香港は中国ではない」と書かれた傘を掲げた。
  1984年の中英合意を行ったのはサッチャー。小さな政府と民営化の必要性を訴えるモディ氏はインド版サッチャーと呼ばれる。

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