東の女傑
インド人民党が無視できない存在は、国民会議派のソニアとプリヤンカという二人の女性よりむしろ、三人の地方政党の女傑だったかもしれない。北のマヤワティ女史、逝去した南のジャヤラリタ女史。そして東のママタ・バナジー。
インド人民党が勢力との争いが注目された州のひとつが西ベンガル。「全インド草の根会議派」は「AITMC、TMC」と略される西ベンガル州を基盤とする地域政党。その全インド草の根会議派の総裁は、マムタ・バナジー。西ベンガルの女王と呼ばれる。下院に34の議席を持つ。「トリナムル・コングレス」ともいわれる。結成は、一九九七年に、国民会議派からマムター・バナジー氏がが追放され国民会議派から分裂する形で結成された。西ベンガル州では、インド共産党マルクス主義派を軸とする左翼戦線も強いがそれとは対抗する立場をとり、インド人民党の連立政権に加わっている。一九九八年、一九九九年の総選挙でバジパイ首相の連立政権に加わり、バナジー党首は鉄道大臣、石炭・鉱業大臣を歴任した。二〇〇四年の総選挙では、国民会議派が左翼戦線を支持しマンモハン・シン政権に加わることはなかった。
西ベンガル州では、左翼戦線州政府が小型車タタ・ナノ生産工場の誘致を進めていたが、バナジー氏はこれに激しく反対し、撤回に追い込んだ。左翼戦線がマンモハン・シン政権への支持を撤回すると今度は国民会議派に接近し、二〇〇九年の総選挙では、国民会議派に選挙協力し、
選挙後、バナジー党首は第二次マンモハン・シン内閣で鉄道大臣として入閣した。その後、二大政党のどちらとも距離を置く中間派政党となり、二〇一四年の選挙では、西ベンガル州42議席の内34議席を獲得し、下院第4党の議席数となった。タミルナドゥ州の全インド・アンナ・ドラヴィダ進歩党(AIADMK)とともに、地域政党の雄である。インドの三大女傑のひとり、タミルナドゥ州のジャヤラリタ女史が逝去し、残る北の女傑マヤワティ氏とともにインド政治を盛り上げる。
西ベンガル州は、人口約 9 千万人でインドでは 4 番目。ビハリー・ボースとチャンドラ・ボースの二人の独立運動家が生まれた所で、英国統治時代から反政府活動の中心地だった。1977 年に共産党政権が発足し、耕作人に土地分配を実施し現在も共産党政権が続いている。共産党政権が強い州は、他にケララ州とトリプラ州があるが、30 年以上も政権を維持しているのは西ベンガル州のみ。
この共産党政権を打ち破る政治家がママタ・バナジー。化粧も結婚もせず、身に付けるサリーは安いもの。31 歳の最年少で国会議員に当選。性格は大変激しく、抗議運動で州政府首相の車の上に仁王立ちになったり、国会で男性の襟首をつかんでひきずったり、共産党支持者の暴行を受け、瀕死の重傷を受けたこともある。
西ベンガル州は、南北にも広く、北はダージリンにまで及びブータンと接する。南はベンガル湾に面し、州はガンジス川流域の大部分に相当する。 ベンガル湾で発達したモンスーンが大量の降雨をもたらし、ダージリンでは年間2,500mmに達する。植民地時代はベンガル州の一部だったが、1947年の印パ分離独立の際に、東ベンガルがパキスタン領の東パキスタンつまり現在のバングラデシュとなったため、西ベンガルのみで州となった。
総選挙での闘いの結果は如何に。