ロシア
冷戦期のインドとソ連の特殊な関係の背景には、アメリカのパキスタン傾斜政策への反動がある。一方国内では、インディラ・ ガンディー首相の国民会議派が社会主義を用い、多数派を形成するためにソ連派の共産党の支持を求めなければならない事情があった。
冷戦時代の印ソ関係は、経済援助から武器取引へと発展していった。冷戦当時、西側先進諸国は、発展途上国が特定の産業を国家主導で育成する政策には批判的だった。こうした中、インドの第2次5ヵ年計画での製鉄所建設を援助したのがソ連だった。1960 年代に入るとソ連は、兵器の供給でも南アジアの市場に参入し、アメリカが超音速戦闘機F104をパキスタンに供与したのに対し、インドはソ連から対抗する形でミグ 21の供給を受けた。1962 年の中印国境戦争の軍事的危機でインドはアメリカに支援を求め、ケネディは上院議員や大統領としてインド支援に動いたがその流れがソ連によって変わっていった。
さらに干ばつ後の経済苦境がソ連・東欧との貿易を活発にした。1957年の未曾有の旱魃で食糧危機を迎えたインドは、食糧援助と引き換えに、アメリカが提案する農業・経済改革を受け入れたが、一時的な効果しかなかった。インドは二国間協定で輸出拡大を図り、非同盟のユーゴスラビアとエジプトや東側諸国との交易を拡大した。ソ連・東欧諸国で不足していた軽工業品をインドが供給し、インドが先端兵器をソ連・東欧諸国から購入するという形の貿易だ。閉鎖的な経済の中にある東側の国々を相手にインド自身も自給を実現するという経済体制になったのだ。
「米中パ」「印ソ」という関係が築かれることになった要因には二つの戦争が深く関わっている。1969年、ベトナム戦争からの脱出を図るニクソン政権は、パキスタンに中国との仲介を依頼し「米中パ」枢軸が形成されていった。1969年の第2次印パ戦争で両国への関与を停止したアメリカとは対照的に、ソ連は、ヘリコプターや戦車をインドに提供し「印ソ」の連携が強まる。インドでは国民会議派が分裂し(1969)、インディラ・ガンディー首相派をインド共産党(ソ連派)が支持して政権を維持した。印ソは政治的関係を深めていった。
第3次印パ戦争で、アメリカは戦争の帰趨が決まりかけてから第七艦隊をベンガル湾に送り込んだだけのパキスタンにとっては冷ややかな対応をとった。この機を逃さず、印ソ平和友好援助条約が結ばれ、印ソ関係は1971年にピークを迎えた。同時に印パの争いのインドの優位が確立した。さらに石油ショックでは、ルピー立てで原油 を供給することで、ソ連はインドを救済した。
1979 年のソ連によるアフガニスタン侵略に対し、アメリカはムジャヒディンによる対ソ抵抗戦を支援しパキスタンがその窓口となった。1981年、レーガンが大統領に就任すると、パキスタンに対して翌年から5年間で総額 32 億ドルの援助を供与し米パ関係はさらに緊密化した。さらにソ連のアフガニスタンからの撤退は、戦地を求めるムジャヒディンのカシミールへの流入を生み、インドにとっては迷惑なものだった。しかし、兵器と石油というソ連の輸出品と、インドの工業製品との取引が印ソ関係を支える形となった。
印ソ関係の転機は、1991年に訪れた。湾岸戦争とソ連崩壊である。前年夏にイラクがクゥエートを侵略したのに対し国連安保理はイラク軍の撤退を求め経済制裁を開始した。アメリカを中心とする多国籍軍が軍事力を行使しイラク軍をクウェートから駆逐した。この過程で、インドに大きな経済的損失を被った。60年代末以来自給的体制をとってきたインドは、石油などの戦略物資輸入による貿易収支の赤字を埋めるために湾岸諸国への出稼ぎ労働者の送金を続けていた。それが帰国を余儀なくされ、さらに安保理の経済制裁によってイラク原油が輸入ができなくなったため、インドは第2次石油危機後以来およそ10年ぶりにIMFの構造調整融資を受けた。インドのいわゆる1991年経済危機だ。
さらにクリントン訪印とインド核実験が続く。1993 年にアメリカにクリントン政権が成立すると、アジア指向の姿勢を明確にした。中国とインドを重視したクリントン大統領は、1996年の訪中に次いで、1998年秋には77年のカーター大統領以来の訪印を計画し、5 月にはインド大統領が訪米したがインド大統領の帰国直後に、インドが 24 年ぶりの核実験を実施した。
こうした状況の中でプーチン訪印と原子力協力へと印露関係は進展する。
2000年は、その印露関係の次の転機となった。この年の3月、核実験によって延期されていた訪印を、クリントン大統領が行った。ロシアでは、プーチンが大統領に就任し、10 月に、ロシア大統領としては8年ぶり2度目となるインド訪問を行い、両国間の「戦略的パートナーシップ」を謳った。2000 年のプーチン訪印では、2基の商業用原子炉輸出の契約が結ばれた。
核関連で文字通りロシアがアメリカに取って代わったのがタラプル原子力発電所。1963 年のアメリカとの援助協定により建設されたもので、その後 30 年間 は、アメリカのみが核燃料の濃縮ウランを供給することになっていた。1974 年にインドが初の核実験、1978年に核不拡散法が成立すると、アメリカは国内法を楯に、インドへの核燃料供給を停止していた。当初はフランスが、後は中国が、核燃料を供給することで一応の妥協が成立していたが、1998 年のインド核実験の後は、中国も供給を停止していた。それに代わって、ロシアが新たに核燃料を供給するということになった。これによって、長年印米間の軋轢の種であったタラプル原発問題に、ロシア側から言えば、 インドに核保有国の地位を認めず核関連の協力はしないという核供給国グ ループ内の足並みよりも、印露関係を優先させたもので、核問題でインドの 特別な地位を、他国に先駆けてロシアが事実上承認した初の事例といえる。米印核接近の背景には米露のインド接近競争があったのだ。
このあと印露関係は、同時多発テロからバジパイ首相の訪露とつながる。
インドのバジパイ首相はアフガニスタン戦争の終盤の11月にロシアを訪問、ポスト・タリバンの枠組みにインドが入れるように、タリバン時代にアフガニスタンからのイスラム原理主義勢力に同じように悩まされていたロシアとの間で利害の一致を確認した。この時期にインドでは国会議事堂襲撃事件があり、パキスタンのイスラム原理主義勢力が関与していることが明らかになった。モスクワでも、イスラム原理主義勢力の攻撃が続いていた。反イスラム原理主義勢力で、印露は接近し、バジパイ訪露で原発建設の1988 年の協定を新規改定する実施協定も正式に結ばれた。
上海協力機構の会合に出席の帰途にインドを訪れたプーチン大統領は、デリー宣言で、インドの国連安全保障理事会常任理事国入りに対するロシアの支持を謳った。
経済交流は不調といわざるを得ない。両国間貿易はなかなか低迷を脱していない。武器やプロジェクト関連取引が主で、両国間貿易が依然として二国間のルピー・ルーブル取引で行われている。インドも、ソ連が解体して生まれたロシアも、アメリカからの自立は難しかったものの、地域大国として戦略的利害の共通性を再発見した。ロシアがインドに供給する兵器、原発、エネルギーは、ロシアが対インドで「歴史的」に比較優位を持っている分野だ。「経済的」にインド優位になりつつあるが、国連安保理常任理事国であり核不拡散条約上の核兵器国の地位を持つロシアの「政治的」優位性が二国間関係の基礎にある。印露両国ともアメリカとの関係を基軸に双方を見るという点では冷戦以来変わっていない。