なぜハリス効果がアメリカの大統領選挙の明暗を分けるのか?【バイデン候補がインドを重視する3つの理由、AAPI、外交、オバマ回帰】
アメリカ大統領選の民主党候補に指名されるバイデン前副大統領にとってアジア系アメリカ人の票が極めて重要になっている。副大統領候補に起用したカマラ・ハリス上院議員のインド系移民の娘という経歴はマイノリティーでありながも人口が急増している大きな変動要素だからだ。アメリカの大統領選挙は分かれ目の層や州の取り合いだ。
母親がインド出身のハリス氏は主要政党で大統領選に参加する初の黒人女性かつアジア系米国人。バイデン氏は2020年8月12日「彼女の歴史はアメリカの歴史だ」と語った。アジア系アメリカ人の人口は6%に満たないが激戦州で急増している。11月の大統領選挙結果を左右するカギとなる。
民主党陣営でアジア系・太平洋諸島系アメリカ国人(AAPI)は重要。2016年の大統領選ではヒラリー・クリントン候補のAAPI系からの全米の得票は2対1の割合でトランプ氏を上回った。激戦州のフロリダ、ミシガン、ノースカロライナ、ジョージア、テキサス州ではAAPI系の人口増加率は12年から18年にかけて40%を上回る。総住民数の3倍以上の増え方でインド系が最大グループ。
AAPI系の3分の2は移民1世で両親がチャンスを求めて渡米。正義、公民権、機会の平等を求める。1965年の新移民法はインド系にアメリカへの移民を可能にした。
バイデン陣営は15日、インドの独立記念日に合わせたイベントを開催。陣営は民族別の言語を話すスタッフで電話作戦を実施するという。連邦議員選挙でもアジア系アメリカ人の立候補が注目されている。
インドはバイデン政権の主要なアメリカのパートナーになるのだろうか。バイデン政権はインドが国際機関で主導的な役割を果たすことに前向き。国連安全保障理事会へのインドの参加。中国をけん制。テロ対策でのインドの果たす役割に期待する。同時多発テロの南アジア・トラウマは消えない。トランプ大統領が禁止したH-1Bなど非移民ビザの労働者のアメリカへの入国もどうなるのか。
バイデンは大統領に選出された場合、中国に反対してインド側に立つ姿勢を示している。
バイデン政権はインドとアメリカの関係強化を最優先とする。バイデン氏は、インドと中国の国境をめぐる関係について次のように述べている。「アメリカとインドがより親しい友人やパートナーになれば、世界はより安全な場所になる。大統領に選出された場合、インドが自分たちの地域や国境で直面する脅威に立ち向かう」。
8月15日の第74回インド独立記念日を記念して、インド系アメリカ人コミュニティが主催するイベントで講演。バイデンのキャンペーンは400万人のインド系アメリカ人の票の取り込みに動く。「テロ対策パートナーとしてインドの防衛と能力を強化し、保健システムとパンデミック対応を改善し、高等教育、宇宙探査、人道的救援などの分野で協力を深める」「上院議員および副大統領として、私はそれが深まるのを見てきた。15年前、私はインドとの民生用原子力協定を承認するための取り組みを主導していた」
経済問題。「両国で市場を開き、中産階級を成長させる素晴らしい双方向貿易を拡大している。気候変動や地球規模の健康安全など、大きな地球規模の課題に共に取り組む。多様性をもって民主主義を強化することは私たちの相互の強みだ。親しい友人はすべての問題について正直に話し合う」
世界で最も古く、最大の民主主義国家であるアメリカとインドは、共通の民主的価値観、つまり公正で自由な選挙、法の下での平等、表現と宗教の自由を守る。
2006年にバイデンは、米印関係の将来に対する彼のビジョンを発表。「私の夢は、2020年に世界で最も近い2つの国がインドと米国になることだ」。2008年の米印民間核合意を承認するために議会での責任者を率先。オバマ政権は、戦略的、防衛的、経済的、地域的、世界的な課題について、インドとアメリカの間の協力を進めた。それは世界的な気候危機に対処するためのパリ気候協定の調印の成功へとつながった。
「バイデン政権はアメリカをパリ協定に戻し、気候変動と戦うために再びインドと緊密に協力し、二酸化炭素排出量を削減し、クリーンエネルギーの将来を確保するためにもう一度協力する」。
陣営HPよりの抜粋。
「インド系アメリカ人のニーズに耳を傾ける。そして、彼らの優先事項に対処するポリシーを導入する。インド系アメリカ人は、他のすべてのアメリカ人と同様に、教育、高品質で手頃な価格のヘルスケアへのアクセス、気候危機への対処、移民システムの改革と近代化など、私たちの価値観に沿った方法で、私たちの未来の中核要素に関わっている。バイデン氏は、彼の副大統領候補に選ばれたカマラ・ハリス上院議員をはじめ、南アジア系アメリカ人が彼の政権に参加することを保証する。私たちの政府は米国の多様性を反映し、彼らのコミュニティに影響を与える政策の形成にはインド系アメリカ人の声が含まれる」
「FBIのヘイト犯罪統計によると、ドナルド・トランプが就任して以来、全国で発生するヘイト犯罪の数は大幅に増加している。偏見と憎しみを奨励し、勇気づける大統領は危険だ。ヒンドゥー教、シク教徒、イスラム教徒、ジャイナ教徒など、あらゆる背景のインド系アメリカ人は、いじめや外国人嫌悪の攻撃にさらされている。オバマ・バイデン政権時代、FBIはヘイト犯罪統計プログラムを拡大し、シク教徒、ヒンズー教徒、仏教徒を含めた。バイデンは大統領としてヘイト犯罪で有罪判決を受けた人物が銃器を購入または所持することを禁止する法律を制定する。白人のナショナリストのテロに立ち向かうよう命じる。彼はまた、礼拝所や寺院、モスクなどの他の宗教コミュニティサイトで発生する特定の憎悪犯罪の可能性のある判決を増やす法案を模索する」
2012年、シク教徒のコミュニティで白人至上主義者がウィスコンシン州で発砲し7人を殺傷事件。2019年1月、ヒンドゥー教のマンディールでの破壊行為。
「重要なサービスとリソースに対する言語の問題は、限られた英語に堪能なインド系アメリカ人がその潜在能力とアメリカンドリームを実現することを妨げる可能性がある。すべての公立学校がすべての子供たちの可能性を引き出すのに役立つ十分な英語学習サポートを確実に提供するよう努める」
オバマ・バイデン政権は米軍の兵士がシク教徒とイスラム教徒が宗教的な頭覆いを着用できるようにした。
「オバマ・バイデン政権は、インドが軍事力を強化するために必要とする先進的で繊細な技術に関して、インドが最も近い国と同等に扱われることを確実にするために、インドを「主要国防パートナー」(議会によって承認された地位)と名付けた」
「オバマ・バイデン政権はインドと緊密に協力して、すべての国民を脅かす世界的な気候危機に対処するためのパリ気候協定の調印に成功した。バイデン政権は、アメリカをパリ協定に戻すことで、気候変動と戦うためにインドと再び緊密に協力し、炭素排出量を削減し、クリーンエネルギーの将来を確保するためにもう一度協力する」
ジョセフ・ロビネット・バイデン・ジュニア(1942年11月20日生)はアイルランド系移民の子孫でローマ・カトリック信徒。アメリカ建国以来初のローマ・カトリック教徒の副大統領。ペンシルベニア州スクラントンで4人兄弟の長男として生まれた。クレイモントにあるカトリック系の私立学校、アーキメア・アカデミーに入学。人種差別に反対する座り込み活動にも参加した。幼少期から吃音に苦しみ鏡の前で詩の朗読を続けた。1988年2月に45歳の時、脳動脈瘤が破裂し一時危篤状態、リハビリを続けた。外交通として認知されているバイデンは、イラク政策に関連して、2007年9月26日に共和党のサム・ブラウンバック上院議員と共に、法的拘束力のない「イラク分割決議」を75対23で成立させたオバマが弱いとされている有権者層である白人(特に白人労働者)、カトリックに強い。2017年1月12日、副大統領としての功労を讃えられ、大統領自由勲章をオバマ大統領より受章。受賞を事前に知らされていなかったバイデンは涙し、即興のスピーチを20分間行った。
宗教はローマ・カトリック。家族も全員ローマ・カトリックの信者である。また、現在でもデラウェア州グレンヴィルのブランディワイン地区にある聖ジョセフ教会のミサに定期的に出席。酒は全く飲まないと公言。上院議員に当選直後、1972年12月18日に妻のネイリアがクリスマスの買い物で3人の子供を連れて車で出かけ交差点でトレーラーに追突され、ネイリアとまだ幼かったナオミが死亡。ボーとロバートは生き残ったものの瀕死の重傷。毎年12月18日には、自動車事故で他界した1人目の妻ネイリアと長女ナオミを偲ぶため、一切の仕事をしない。
得意とする外交分野。第二次戦略兵器制限交渉(SALT II)で“ミスター・ニエット”のグロムイコに修正案追加を認めさせることに成功。SALT IIは1979年にオーストリアのウィーンにおいて、アメリカのジミー・カーター大統領とソ連のレオニード・ブレジネフ書記長の間で調印され連邦議会の承認・批准に修正が必要になっていた。コソヴォ問題では、紛争地域を繰り返し訪問する一方で、コソヴォ紛争当時のユーゴスラビア大統領であり、セルビア人勢力の代表でもあったスロボダン・ミロシェヴィッチと深夜に極秘会談を行った。セルビアに対するアメリカの直接攻撃を擁護する姿勢を表明し、セルビアに対して「必要なあらゆる武力」を行使する権限をクリントン大統領に与える「マケイン=バイデン・コソヴォ決議」を成立させた。1991年に湾岸戦争における対イラク武力行使に反対。2003年から始まったイラク戦争ではブッシュ政権が武力行使を容認したがフセイン独裁体制の排除には反対を表明。2007年初めに政府が提案したイラクへのアメリカ軍増派法案についても反対した。イラク戦争と内戦を収拾する手段としてシーア派・スンニ派・クルド人の区域に分割し、これら3つの区域から成る連邦国家にするという「イラク3分割案」を提案。上院において75対23の賛成多数で成立した。
インドのカマラ・ハリスの家族。母親はインドの固定観念を覆し女性の平等を促進した。ハリスの祖父は1911年にチェンナイの南にあるパインガナドゥで生まれた。カースト制度ではタミルブラーマンと呼ばれるエリート。祖父はイギリスの植民地政府の速記者としての仕事をした。1947年の独立後、祖父は新しいインド政府の公務員。4人兄弟のハリスの母親は父親の転勤で数年ごとに新しい町に移住。ゴパランはデリーの大学に通い栄養と子供の発達のホームサイエンスを学ぶ。バークレーに到着したときゴパランは19歳。当時アメリカに住んでいたインド人はほとんどいない。公民権運動のバークレーの政治活動の時代に結婚。カップルには間もなく2人の娘ができた。サンスクリット語で「蓮」を意味するカマラと、「幻想」を意味するマヤ。ハリスさんが7歳のときに離婚を申し立てました。ゴパランにとってインドの遺産を維持することは重要。娘たちにヒンドゥー教の神話とドーサやイドゥリなどの南インド料理を紹介し、時々歌った近くのヒンドゥー寺院に連れて行った。両親がいたインドの南東海岸のチェンナイに数年ごとに戻った。ハリスは母親の死去11年後。叔父散歩をしたバサントナガルのビーチで灰を波に散らした。
三つの理由は、AAPI、外交、オバマ回帰。